シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

ただ努力を集めても形にならない――あなたが組み立てない限りは

 
 http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/archives/972
 
 上のリンク先にあるように、努力って言葉、よくみかけますよね。
 
 「お前は努力が足りない」だの、「努力したのに報われない」だの、「努力するだけ無駄」だの…。思いいれのシロップをどっさりかけられた、愛憎いりまじった“努力”という言葉に、一喜一憂する人の姿はインターネットの内外で絶えることありません。これだけ皆が熱烈に言及するあたり、本当はみんな、今でも努力が好きで好きでしようがないのかもしれませんね。
 
 ラブコメ風に書くなら“大好きな努力クンがあたしに微笑んでくれないプンプン!”みたいな感じで。
 
 

ただ努力を集めるだけの人≒ただ積み木を集めるだけの人

 
 それはさておき、努力って、積み木とかレゴブロックみたいなものだと思うんです。材料と工夫次第では色んなものが組み立てられる・けれでも何も考えずに集めてみただけではなんにもならなくて、つまんないブロックの山が出来上がるだけ、っていう。
 
 努力だって同じじゃないですか。何も考えずに努力を重ねてみたって、何もできやしません。せいぜい、無駄な努力がうずたかく積み上げられるだけのこと。努力を形にするための計画性・慎重さ・工夫といった運用ノウハウを欠いていれば、努力が何かの形をとることは無いでしょう。また、失敗から教訓を学び取ることもなく同じ努力を繰り返すというのは、崩れた積み木を同じ積み方で何度も積み直すのと同じぐらい不毛に見えます。
 
 まさか、「失敗したのは運が悪かっただけ」とでもいうんですか?もしそうだとしても、それなら次回は運が悪くても上手く運ぶように工夫を凝らすしかないでしょう。運が悪いとぼやきながら、悪運対策を怠って同じ手技を繰り返すだけの人というのは、いかにも無策です。
 
 ときどき、努力の量ばかり誇る人をみかけます。それはそれで立派なことですが、努力を組み立てる・運用するためのノウハウを欠いているようなら、“積み木はたくさん収集できるけど、それを使ってたいしたものはつくれない人”ということになりそうです。
 
 一方、世の中には、比較的少ない努力(=材料)で、効率的に、確実に、プロダクツや達成に結びつける人というのもいるわけです。あるいは、無駄になったようにみえる努力をどこかでリサイクルするのが上手い人、メインの努力の副産物を片手間で加工して小さな達成をプラスするのが上手い人etc…。そういった、努力の運用上手な人達を見ていると、努力もある程度は必要だけど、努力の運用とか、努力を組み立てるノウハウみたいなものも勝るとも劣らないぐらい重要、という風に思えます。
 
 賽の河原の子どもみたく、何も考えずに努力を積んでいくだけでは、なんにもなりませんからね。
 
 

努力の運用ノウハウはどこでどうやって身につける?

 
 では、努力の積み方・努力の運用ノウハウというものは、どこでどうやって身につけるんでしょうか?
 
 自分の身の回りをみている限り、努力の運用がうまい人間は、十代の頃からだいたい上手だったように思えます。必要な努力を必要なだけ集めて一つの達成を成し遂げるやつとか、転んでもただでは起きない努力のリサイクルの上手いやつとか、若い頃からそういう感じだったと記憶しています。
 
 対して、努力の運用ノウハウのうまくない人は、同じ運用レベルのまま停滞することが珍しくないように見受けられます。努力する自分の姿を誰かに認めてもらいたいための努力を延々と続けたり、努力が報われないと思ったら早々に損切りしてしまいリサイクルが下手だったり。また、努力が身を結ぼうが失敗しようが、それをフィードバックして努力の運用ノウハウを研磨していくという発想の乏しい人もいるように見えます。
 
 こうした現象をみていると、努力の運用ノウハウは加齢につれて身についていくものではない(少なくとも自然増するものではない)と私は思わずにいられません。さりとて、努力の運用ノウハウや、努力の組み立て方について学校で習った記憶はあまり無いですし、いわゆるライフハック的知識でどうにかなるものでもないようにみえます。
 
 ただし、「これをやったら努力の運用ノウハウ形成に悪影響が出そう」なことなら、ちょっと思いつきます。
 
 それは、「人の顔色を伺いながらの努力しかやったことが無い」「短期で確実に評価される努力しかしたことがない」というやつです。これが板についてしまった人は、努力の運用ノウハウを身につける過程で、嫌な癖を身につけてしまいそうです。例えば、
 
・自分が努力している姿を他人に認めてもらうことが目的化してしまう→努力の運用効率が後回しになってしまう。
 
・すぐに確実に成果を出せなければ褒めて貰えない→成果がすぐに出せない努力や失敗のリスクのある努力に挑戦できなくしまう。→簡単で確実な積み木しかつくれない人間のできあがり
 
 のような。
 
 努力の運用ノウハウを涵養していく時期に、上のような体験ばかりだった人は、その後の人生においても、人の顔色に左右されるような努力ばかり繰り返し、即座&確実に成果を出せないような努力は運用不能の人間になってしまいそうです。現に、あなたの周りの“努力が報われない”とぼやいている人のなかにも、上記にあてはまる人をみかけるのではないでしょうか。もちろん、上記だけが努力の運用ノウハウの巧拙を規定するものとも思えませんけど。
 
 やっぱりこういうのって、大人の顔色やテストの点数とは無関係な領域で、努力を積んだり崩したりできるような体験が無いと難しいんじゃないでしょうか?およそ全ての行動が大人からの評価に直結しすぎているような少年時代を過ごしていたら、そういう大人になりやすいとは思うんです。親や教師やPTAの評価とは無関係に、好奇心や自発性に導かれながら努力を積んだり崩したり自由に出来るような、そういう体験ぬきに、努力の運用ノウハウを(自分の為に)磨いていくスタイルは身につけにくいと私は思っています。あまり考えないリモコン人間になりたい人には、どうでもいいことかもしれませんが。
 
 

努力を拝むのも、努力にすがるのも、やめましょうよ。

 
 だから、努力だけを若い人に強調するのは、きっと片手落ちなんでしょう。いくら努力を強調したって、努力の運用ノウハウが悲惨なままじゃあ、にっちもさっちもいきませんし、そのうち、努力に愛憎入り混じった視線を投げかけるようになるのがオチです。「こんなに努力をかき集めたのに、努力は僕を救ってくれなかった!」みたいな。
 
 努力をやたら賛美するのも、やめましょうよ。
 努力は拝んで信じるためのものじゃなく、材料にして組み上げるためのものだってこと、もっと、再認識したほうがいいんじゃないでしょうか。努力を、新興宗教の神様みたいに崇拝して、やれ、報われただの、やれ、報われないだの一喜一憂する人間を増やすよりは、achievementのための材料と割り切ったうえで、努力の運用ノウハウに頭を捻る人間を増やすほうが、いくらかマシなんじゃないかと思います。
 
 努力は、集めただけでは形になりません。
 あなたが努力を形にしなくて、どうするんですか。