シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

常識がプライベート化していく――Common Sense からPrivate Senseへ

 

 常識(じょうしき)は、社会の構成員が有していて当たり前のものとしている価値観、知識、判断力のこと。その社会に適した常識を欠いている場合、社会生活上に支障をきたすことも多い。これは文化摩擦などとして表面化することもある。社会によって常識は異なるため、ある社会の常識が他の社会の非常識となることも珍しくない。
  (wikipediaより抜粋)

 
 英語の Common Sense が訳されて、常識という日本語が誕生したという。
 このことが示すように、常識というのは世間一般で共通している認識、という意味だったと思う。少なくとも、過去の時代においては。
 
 しかし、現代の日本社会では、そうでもなくなってきている。Common Sense ならぬ Private Sense と言いたくなるような、常識のプライベート化が(程度問題はあるにせよ)進行しているようにみえる。
 
 

常識のインストール元が「社会」「地域」から「核家族」になった

 
 その根本要因として注視したいのが核家族、特に“現代の都市空間に住まう核家族”という生活ユニットだ。
 
 昔、子どもの常識インストール源となっていたのは、社会や地域のなかに広く張り巡らされた、多種多様な人間関係全般だった。もちろん両親の影響が最も大きいにせよ、その両親も近所付き合いには相応の注意は払っていたし、学校の先生の指示やアドバイスには一目置いていた。そして同学年のクラスメートとの付き合いに限らず、上の学年や下の学年との付き合いも、子どもが常識を培っていく材料を提供していた。さらに、近所で顔見知りのオッチャンやオバチャンの振る舞いや、地域の風習なども、子どもの常識を形成するうえで無視できないファクターだった。
 
 まとめると、子どもが子ども時代に常識をインストールしていく“お手本”は、質・量ともにさまざまで、両親以外の幅広い人間からも世間のルールや共通見解を吸収しやすかった、というわけだ。
 
 ところが、現代の核家族では、こうした機会がびっくりするほど欠落し得る。
 
 たとえば、都市近郊のニュータウンで付き合いの乏しい両親のもとで育った子どもは、両親以外の大人を常識インストール元にしにくい。学校教師は、昔だったら「先生が常識として思っているもの」を子どもに堂々と提示して差し支えなかっただろうし、そのことが子どもの常識形成のバリエーションに寄与する余地もそれなりに大きかったかもしれない。だが、今そんなことを学校教師がやってのけるのは非常に難しい――なぜなら、自分とは異なった常識を教師に期待する親は、今ではあまり多くあるまいし、むしろそういう教師は非難されてしまうからだ。また、親に連れられて買い物に行くような場合も、昔に比べて家族同士・人間同士がコミュニケーションしないで済ませられるため、常識形成のバリエーション拡大の機会とはなりにくい。スーパーやデパートでの対応はいつも紋切り型で、街中で“よそのお宅の常識”を垣間見るチャンスも大幅に減少している。*1
 
 くわえて、他の学年と集団で遊ぶ機会が減少し、同学年のコミュニケーションもコンピュータゲームやスポーツなどといった“ルールの盤面”に固定されがちになってしまえば、子ども同士で常識を交換する機会はさらに少なくなってしまう。塾や稽古事のたぐいは、特定のスキルは授けてくれるけれども常識は授けてくれないし、家庭とは異なる常識を押し付けてくる塾など、親に煙たがられてしまうのがオチである。
 
 もちろんこれらの変化は相対的なものでしかない。けれどもこれら一連の蓄積として、子どもにとっての常識インストール元に占める核家族の割合は高まりやすくなっている。常識のインストール元が両親の独占状態とまではいかなくても、寡占状態に近い核家族ぐらいなら、かなり存在しているようにみえる。
 
 つまり、現代風の核家族の暮らしのなかでは、核家族の常識だけがインストールされやすい。
 
 常識が Common Sense としてインストールされるには、常識のインストール元が両親だけではなく、社会のなかの、それなりに多種多様な人間からインストールしてこなければならないはず。しかしそういう機会が少なくなり、核家族内部の常識に曝される割合ばかり高まれば、それだけ子どもの身につける常識は public あるいは local なものから private なものへと変質せざるを得ない。そして、その private な常識が社会平均とは相当ズレたものだとしても、両親も社会も子どもに警告してはくれない。先にも挙げたが、現代の学校教師が親に対して「あなたの家庭の常識は、社会平均とは大きく食い違っています」などと“直言”できるかと言ったらまず無理だろう。
 
 こうして核家族における private な常識のインストールは、何者にも妨害されることなく進行していく。特に、親が自分の常識だけを信じて疑わないような場合には、尚更である。よほど目敏い子であれば、早い段階でエキセントリックな自宅の常識に気付いて、どうにかしてでも外の常識を呼吸しようと頑張るかもしれない。だが、そうでない子は、思春期あたりになってようやく気付いて、愕然とするのかもしれない。
 
 

核家族の常識=セカイの常識

 
 Common Sense ならぬ Private Sense を身につけた人達が、次第に世の中に増えてくることになる。みんながみんな、家庭の常識をセカイの常識とみなし、それに合致しない出来事や人物に遭遇しては「あいつは非常識だ」とお互いに不審がる社会。プライベートな常識同士が、お互いに自分の常識だけを信奉しあい、そうでないものを「モンスター」「いかれている」と決めつけあう社会。
 
 “社会の平均なんて知ったことか!私の常識正しい!”
 というわけだ。
 
 こういうことを書くと、「いいや、思春期以降の人生経験で、常識が通用しないことを学んでいくのが人間だ。」と反論する人もいるだろうし、実際、そういう風になっていける人もまだそれなりには存在しているだろう。私だって、そう信じたい。
 
 けれども、思春期以前の常識インストールが核家族に依存しすぎた人は、そう簡単には Common Sense を身につけられないのではないかと私は疑う。
 
 
 1.“三つ子の魂百まで”問題。
 価値観や常識の少なくない部分は、小さい頃に染みつくと容易には変化しない。小さい頃から自分の両親以外のさまざまな常識に既に接していた人と、小学校高学年ぐらいになってはじめて自宅の常識のズレに気付いた人では、後者のほうが圧倒的に常識を広げにくい。仮に「俺の家の常識はおかしい。だから捨ててしまえ!」と決意したとしても、しつこく内面化されてしまった価値観や常識というのは、そう簡単に相対化できるものではない。自分の家の常識をただ正反対にした、ネガ-ポジに相当する常識に変化することなら比較的容易かもしれないが、その場合も、そのネガ-ポジ反転以外の融通性を欠いていることが多い。
 
 2.“専門家は視野を広げる必要が無い”問題。
 現代社会においては、特定の学校・特定の専門職を選択すると、自分が選択した以外の生活圏やジャンルの常識に触れる機会があまり無い。少なくとも、よその界隈の常識に触れずに済ませてしまえる職種というものは少なくない。あらゆる人物との接点を持つことになる職業(Ex.学校教師、市役所の職員、看護師、など)ならともかく、専門分化した職種、生産ラインに特化した職種、管理されまくった男子校の生徒 などは、その狭いジャンルや生活圏の外側を知らずに済ませてしまえる。このため、自分の常識が井戸のなかの蛙であることに危機感を覚えない限り、その狭い界隈の常識しか知らないまま大人になってしまえる。
 
 3.“都市空間では常識の衝突が起こらない”問題。
 しかも、プライベートレベルの常識がどれほどエキセントリックでも、都市空間ではそれが修正される機会が乏しく、案外、おかしな常識をインストールしたままでも生活できてしまうという問題もある。これが都市空間の長所か短所かは分からないが、ともかくも、法に触れるでもない限りは、プライベートな常識の修正を強いるようなイベントが都市空間や国道沿いのロードサイドには存在しない。
 
 なぜなら、エキセントリックな常識を純粋培養された人が、ショッピングモールや市役所などでデタラメな常識を押しつけたとしても、そうしたサービス業種は「非常識な客は出て行け」とは対応しない*2からだ。でたらめな常識を押しつけてくる客がいたとしても、ジャスコならジャスコなり、市役所なら市役所なりに、“お客様対応”“クレーマー対応”といった位置づけで対応することこそあれ、常識と常識を直接対決させて、両者の摺り合わせをはかるようなコミュニケーションが為されることは無い。そのような意味では、クレーマー対応の少なからぬ部分は、コミュニケーションによる相互理解というよりコミュニケーションの相互回避のための営みに近い。もちろん、店側には、相互理解などという手間暇を提供する義理が無いのだから、仕方のないことだろうが。
 
 また、友人関係と一般に呼ばれる人間関係も、ほぼ同質の集団だけと付き合っていたり、交友関係が乏しかったりする人は、友人関係を通して多様な常識に遭遇するということを期待できない。そのうえ、泥んこまみれに喧嘩してまでぶつかりあうようなスタイルが希薄化し、キャラ-コミュニケーションの度合いが高まった現代においては、ちょっとやそっとのことでは常識の衝突は起こらないし、起こったとしても“雨降って地固まる”ではなく“永遠の断裂”になってしまう可能性が高い。
 
 

常識のプライベート化で生じるコストは、社会みんなで負担

 
 以上を踏まえると、Common Sense のかわりに核家族で純粋培養的に Private Sense を身につけてきた人は、思春期以後も常識のインストール元が広がりにくく、 private な常識を抱えたまま加齢していく確率が高いかろうと推定される。思春期以後の人間関係が狭ければ狭いほど、この傾向には拍車がかかるだろう。
 
 見方によっては、private な常識を抱えたままでも生活できてしまう社会的インフラを、現代の都市や国道沿いは提供しているとも言えるわけで、常識が private 化しても、社会は案外回っているようにみえるかもしれない。
 
 しかし実際には、そのような社会的インフラのコストを負担している人間が存在していることは、忘れるべきではない。
 
 現代のサービス業従事者は、あらゆるエキセントリックな常識を押し付けられても対応できるべく、精神的・マニュアル的コストを支払わなければならない。滅茶苦茶な要求を前にしても「非常識な客は出て行け」とはなかなか言えそうにない。「非常識な客は出て行け」と言わずにできるだけ対応せよと現場の人間に求めれば、作業効率性や生産性に有形無形の影響を与えるだろうし、接客ジャンルの難度やストレスにも影響を与えよう。
 
 サービスを受ける側も無関係ではない。現代の商品やサービスには、さまざまなエキセントリックな常識に対応するためのインフラコストが上乗せされているという可能性に留意しなければならない。とてつもなく非常識な人間にも万全を期して対応するべく、大抵の人にはまず不要な説明や付属品をつけたり、サービスや商品の選択範囲や適用範囲を狭めたりするのは、とどのつまりコストが発生していて、そのコストに自分達が金銭や時間を支払っているということでもある。
 
 はたして、常識のプライベート化に伴う広範なコスト増加に対し、「一人一人の個性を大切にするための、当然の代償」という姿勢をどこまで貫いていられるだろうか?もし常識のプライベート化がさらに進行すれば、その対応に、サービス業従事者も消費者も一層コストを負担しなければならなくなるだろう。公共性の高いサービス業種は、一層困難でストレスにみちたものになっていくかもしれない。常識のプライベート化が今の社会にもたらしているもの・これからもたらしていくものは何なのか?どうも私には、あまり良い未来予想図が思い浮かばない。
 
 

*1:もし、思いだせるような年代・地域の人は、ジャスコやファーストフードの店員との会話と、商店街の八百屋や肉屋での世間話付きのやりとりを比較してみて欲しい

*2:というよりも対応してはいけないということになっている、のだろう