シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

味覚をメディアに飼い慣らされること

 
 昨日の夕食は、某牛丼チェーンの牛丼。肉1.5.盛+豚汁にしてショウガをちょっと載せる食べ方が好みかもしれない。最近の外食産業は値下げ競争が激化していると聞くが、一消費者としては、こんなに低価格で美味い食物を提供してくれるのはありがたい限りだ。
 
 ただ、ときどき振り返って思う。
 私が美味いと思って食べているものの正体は、一体なんなんだろう?
 いや、もちろん食べているのは牛丼に違いない。牛丼を美味いと思っているのか、それとも牛丼チェーンがこしらえた配合調味料が美味いと思っているのか。値段が安くてお得だから美味いと思い込んでいるだけなのか?
 
 そもそも、手作りの牛丼ってどんな味だっただろう?自分でつくった牛丼の味を思い出してみると、牛肉のパサパサ感以外の面では、牛丼チェーンの牛丼のほうが美味いような気もする。ドーナツやハンバーガーに至っては、チェーン店で覚えた味以外が記憶に残っていない。
 
 私も含め、たぶん大勢の人は、テレビやチラシを介して「美味しいですよ」という広告を事前に浴びまくったうえで、最適であろう味付けを施された食品を口に入れる機会が多い。その値段で、いちばんおいしく欠点が少ないよう最適化された牛丼・ドーナツ・ハンバーガー。ときには「新製品」「季節限定」といった付加価値がつけられ、いつもと少し違った調味料が施されている時もあって、それを「新しい美味しさだね」とか言ってみたりする。
 
 気付けば、味覚までメディアに飼い慣らされてしまっている。単に、コマーシャルや口コミといった情報に味覚を左右されているという意味だけでなく、味覚のテンプレート、つまり「美味さの基準」がチェーン店の商品が基準となっているという意味でも。
 
 複製可能・大量生産可能な(サッカリンなどの人口調味料も含めた)超刺激や、最適化されまくった刺激に満足するよう味覚を“訓練”され、広告戦略や口コミのなすがままに美味い美味いと連呼するってのは、とどのつまり味覚までも受動的消費者と化しているってことだろう。いや、しようがないんだけど。【美味い/不味い】までもメディアや企業に決めていただくというか、メディアと化した食物に定められてしまうというか。尤も、こんなことは驚くに値しないのかもしれない。既に1960-80年代のうちに、私達は、自分達が幸福であるための条件や、自分達の実存的根拠まで、メディアという“神様”に決めていただくよう、訓練されていたのだから。「おいしい生活。」と言われたらおいしい生活、「エコ」と言われたらエコ、そうでしょう?
 
 こうした、人工的に最適化した食べ物を美味いと感じる味覚って、どこか、オタクのキャラクター萌えにも似ている。
 
 自然状態ではまず遭遇することのない、超刺激。
 そういう超刺激をむさぼり慣れているうちに、超刺激でない状態がだんだん疎ましく思えてくるようになって、むしろ超刺激のほうが望ましいと思えるようになってくるような。二次元キャラ萌えが「生身の異性のめんどくささや、嫌なところを省いて理想化しまくった」のと同じように、食べ物においても「欠点や臭みの無い味をひたすら目指した」といったところだろうか。強調すべきテイストだけを強調し、嫌いな人もいるかもしれない臭みを極力消して、わかりやすい美味さで構成するという方向性は、やっぱり二次元キャラクター萌えに似ている。
  
 念のため書いておくと、だから脱メディアしましょうとか、本当の味を求めましょうとか、そんなことを言いたいわけでもない。虎屋の羊羹とかドンペリニョンとか、そういったシンボリックな度合いが高い食物のシンボル性に幻惑されながら口に入れるという現象は以前からあったわけだし、スローフードのようなものにしても、スローフードという記号自体が既に散々メディアで吹聴されているのだから、【スローフード=脱メディア】という図式など成立しない。語られた食物・宣伝された食物には、多かれ少なかれメディアな手垢が染み付くものなんだから。それはしようがないし、悪いことばかりというわけでもない。
 
 ただ、視覚や聴覚がメディアに慣らされていくことが当然の世の中において、嗅覚や味覚だけはメディアに慣らされていないとか、自然感覚だとかと思い込むのは無邪気すぎるとも思う。気付いたときには、大手ファーストフードチェーン店の調味料が自分の味覚判断の基準になっていて、そこから外れたものをたいして美味しいと思わなくなっていたりする可能性については、振り返っておきたくなる。臭いミョウガや草っぽいニンジンの風味を嫌悪するような舌や、マヨネーズや濃厚ソースの味を心地よく感じるような舌が、どこまで自分の嗜好なのか、それともメディアに飼い慣らされた結果としての嗜好なのか、区別するのが難しい時代になった。
 
 まあ、自分の嗜好だろうがメディアに飼い慣らされた結果だろうが、どっちにしたって美味い牛丼は美味いし、大人であれば、好きなものを好きなように自由と責任の名のもとに味わえばいいのだろう。その一方で、例えば子どもの場合はどうなんだという疑問も残る。小さい頃から企業やメディアに飼い慣らされ、ジュースやファーストフードに最適化されすぎた舌になってしまったら?いまさら疑問形にするまでもなく、そういう傾向が強い人をチラホラ見かけるように思う。いつまでも健康に良いならともかく、歳をとってから健康にあまり良くないような味覚に最適化してしまうと、いろいろ大変そうだ。