シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

「運が悪かった」を検討する際の心構えについて

 
 【要約】
 人間はしばしば、自分には理解や推定が及ばないファクター全般を運のせいにするので、その人の推定が及ぶ範囲や理解の程度によって、(その人から見た)運に左右される体感度は変わる。とはいえ、出来事に関連したすべてのファクターを見通すことは人智を越えているので、把握力を鍛えようと頑張るだけでなく、すべてを把握しきれないという前提にたった処世術が好ましい。
 
 
 【「運が悪かった」というぼやきの点検】
 
 “いわゆる運の良し悪し”とは何だろうか?
 
 世の中には、人間の知恵では予測出来ないことが沢山ある。商店街のクジで一等をひく幸運や、飛行機事故に遭遇する不運は、人間にはまず予測がつかないので、これこそ正真正銘、運次第というところだろう。
 
 しかし、世の中で「運が悪かった」と言われる出来事のなかには、すべてが予測不能の運次第と言いきれないものも多い。例えば、ミッドウェー海戦に際して偵察機が故障してしまった旧日本軍は、故障がそのタイミングで起こったこと自体は不運かもしれないが、偵察機の整備状況や技術水準が違っていれば、不運に見舞われる確率は変動したかもしれない。あるいは試験の直前に風邪をこじらせる受験生の不運なども、試験の二週間ほど前から無理をせず体調保持を最優先の体制に切り替えていたのか、それとも試験直前だからと夜遅くまで粘っていたのかによって、風邪をこじらす確率はかなり違っただろう。
 
 宝クジなどと異なり、日常生活の多くの幸運/不運は、無数の行動選択やファクターによって確率が変化する。このため、幸運/不運の確率を上げ下げするファクターにどこまで気付けるかによって、その人の体感上の幸運/不運は大きく変化する。先ほどの例でいうなら、風邪をこじらせるリスクが想像できない迂闊な受験生にとって、試験本番の風邪は「なんて俺はついていないんだ!」と体感される確率は高そうだが、風邪をこじらせるリスクを心得ている受験生にとって、十分な注意と対策を施せば高確率で回避できるリスクとみなされるだろう。このように、出来事に影響するファクターやリスクを複数にわたって把握できる人にとっては注意次第で回避可能なリスクが、視野の狭い想像力の乏しい人物には「運が悪かった」で片付けられてしまうというケースは存外に多い
 
 だからもし、「運が悪かった」と口にしている人がいたら、その不運の内容はよくよく検討してみる必要がある;彼/彼女の言う「運が悪かった」が、隕石落下のように純然たる不運だったら、たしかに同情に値しよう。しかし、注意すればまず確実に回避できるリスクまで「運が悪かった」と決めつけて省みない場合、本当に運が悪かったと言えるだろうか?ひょっとして、彼/彼女は、自分の落度を運のせいにする思慮の足りない人物だと自己主張しているだけではないだろうか?もちろん自分自身を振り返る際にも、同じことが言える。悪い出来事を運のせいにして清算する前に、点検しておくべき点が無かったか、振り返ってみる必要がある。
 
 
 【自分の把握力を弁え、謹んで暮らすのが最上】
 
 尤も、どれほど知恵に恵まれた人間でも、帝釈天の帝網*1を知り尽くすことは不可能なので、すべての幸運/不運を因果関係のように説明づけようとするのは、それはそれで無理がある。
 
 だから、自分の知的可能性が有限だと弁えている人の場合、自分の知恵ですべて見通そうとするのではなく、できるだけ視野を広く持とうとしながらも、自分には把握できない縁起*2が存在すると弁えた生活スタイルを構築するのが適当のようにみえる。
 
 つまり、幸運や不運をもたらす諸ファクターをできるだけ見極めながらも、自分が気付ぬうちに不運の源を無闇につくらぬよう、日々の生活を謹んで過ごすのが理想、ということだろうか。具体的には、むやみに悪口を言わないとか、悪いことをやたらと他人のせいにしないとか、誰も見ていないっぽい時にも悪徳をおかさないとか、そういった習慣をつくりあげていくことなのだろう。あるいは、自分の成果と言えそうな出来事があったとしても、すべて自分の手柄だと自惚れるだけでなく、周囲の人達の見えざる手助けに思いを馳せ、“お陰様”の精神を忘れないようにすべきなのだろう。いずれも太古の昔から言い古されてきた陳腐な戒めかもしれないが、実践するのはとても難しい。だが少なくとも「自分には全てが把握できている」という知的傲慢に陥るよりは、ずっと賢明なことのように思える。
 
 1.何でも運のせいにしない豊かな知恵や広い視野を磨きつつも、
 2.全てのファクターを読み切ることは人智では不可能という前提にたって暮らす
 
 このどちらが欠けていても、いわゆる運なるものに振り回されることは避けられないと私は推定する。しかし私も含め、世の中の人間の殆どは、このどちらかまたは両方を欠いているので、やれ運が良かった悪かったとブツクサ言いながら、インビジブルな巡り合わせと、自分自身の執着に振り回されるのだろう。戒めたい。
 
 
 [関連]:http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/archives/941
 

運と気まぐれに支配される人たち―ラ・ロシュフコー箴言集 (角川文庫)

運と気まぐれに支配される人たち―ラ・ロシュフコー箴言集 (角川文庫)

 

*1:帝釈天の帝網:この世のありとあらゆる生物や事象や現象は、どれもそれ単独で起こっているのではなく、互いに限りなく関連しあいながら起こっている、ということを指す言葉。仏教用語。

*2:縁起:仏教の根幹をなす思想の一つ。世界の一切は直接にも間接にも何らかのかたちでそれぞれ関わり合って生滅変化しているという考え方を指す。いわゆる因果関係のように、原因と結果を一対一の関係で結ぶ考え方ではない点に注意。釈尊は、「因縁をすべて把握するのは人間には困難」と説いたという。