シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「熱気を帯びたゲームレビュー」は今どこへ?

 
 twitterライフを満喫していたある日、グサッと来るツイートを発見して狼狽してしまった。
 

 最近ゲームの体験をうまく伝えてくれるブログがないよねという話をしていたのだけど、ゲームプレイという主観的な体験よりも、業界情報みたいな知らない人間でも適当に楽しめてしまうメタ情報の方が注目を集めて流通するのはほんと不幸だ

http://twitter.com/kanose/status/4071732134547457

 オレのことですか?
 
 私はシューティングゲームを愛好する人間で、このblogはシューティングゲームの楽しい記憶を書き残すためのものでもあった。少なくとも過去の一時期は、そうだった筈である。ところが最近、自分が汗をかきながら楽しんだゲーム体験を滅多にblogに書かなくなってしまった。シューティングゲームについて書く際も、id:kanoseさんが指摘する“業界情報みたいな知らない人間でも適当に楽しめてしまうメタ情報”を優先してしまい、ゲームを遊んだときの主観的な体験や興奮・熱量についてはあんまり書いていない。たとえば以下の三つの記事も、
 
 
弾幕とシューティング史----弾幕以前、弾幕以後 - シロクマの屑籠
シューティングメーカーは、もっと上手にお金を巻き上げるべき - シロクマの屑籠
弾幕シューティング=難しい という偏見 - シロクマの屑籠
 
 一歩下がって俯瞰するような、シューティングゲーム全体についてのメタな文章だと言える。
 
 

パトスの迸るようなゲームレビューをまとめるのは難しい

 
 じゃあ、お前も熱いゲームレビューを書けよ、と仰る人がいるかもしれない。
 
 けれどもシューティングゲームの煮えたぎる体験をまとめ、しかも広い範囲の人にも読んで貰えそうなクオリティに仕上げるのは、とても難しい。少なくとも私はそう感じている。以前、このblogでも『怒首領蜂大復活』『雷電IV』などの記事を書き残したことはあるけれど、自分が体験した熱量をきちんと表現できたとは思えない。メタな俯瞰視点でゲームのことを記述するより、自分の体験に籠もっている熱量を表現するほうが、blog記事としてまとめるのは難しいと個人的には感じる。
 
 なんというか、ゲームの長所や特徴について第三者に伝えるのはわりと簡単でも、自分が体験したエモーショナルな熱量をテキストを介して伝えるには、ある種の才能が必要なんじゃないだろうか?と。
 
 同じゲームを遊んでいる者同士なら、この手の才能はほとんど必要無いだろう。けれども、そのゲームを遊んだことの無い人間の心にも主観的な熱さをデリバリーし、「なんだか凄く楽しそうだ!」と思って貰うのは、なかなか大変そうではある。
 
 

「熱いのは、切込隊長の遊んだゲーム?ゲームを遊んだ切込隊長?」

 
 さて、こうしたゲーム熱を伝える才能に恵まれているように見える人物を紹介してみる。やまもといちろうBLOG(ブログ)の切込隊長さんだ。
 
 切込隊長のゲーム関連記事を読むと、えらく熱感の籠もった、心をザワザワさせる何かが感じられ、いつも顔がほころんでしまう。例えば
 
4Gamer.net ― 【切込隊長】打倒ローマを目指すケルト文化の挑戦(前編)
4Gamer.net ― 【切込隊長】打倒ローマを目指すケルト文化の挑戦(中篇)
4Gamer.net ― 【切込隊長】打倒ローマを目指すケルト文化の挑戦(後編)
 
4Gamer.net ― 【切込隊長】「天下統一 -相剋の果て-」プレイレポート――ああ,やんぬるかな姉小路家
 
 
 などは、ゲームの長所短所だけでなく、プレイヤーの喜怒哀楽がバッチリ伝わってくる。純粋な読み物としても面白い。「オレも姉小路家の悲哀を味わってみたい!」などといった妄念が沸いてきて、Amazonの在庫を調べたくなる。
 
 ただ切込隊長の場合、ゲームレビューが熱いんじゃなくて切込隊長という人物そのものが熱いんじゃないかという疑いがどうしても拭えない。“切込隊長が体験したからゲームレビューも熱いのであって、自分が同じゲームを遊んだからと言って同じ熱量が再体験できないのではないか?”そんな邪心が芽生えてしまう。
 
 原子炉のようなハートの持ち主は、ゲームをやろうがビジネスを語ろうが熱気に溢れているに違いない;いつも熱感の籠もった文章の人のゲームレビューを目にする時、読者たる私達は、その熱量がゲーム体験に由来しているのか、筆者自身に由来しているのか、にわかには判別しがたい
 
 だから厳密には、普段はクールな文章しか書かない人が、ゲームの話になると急に熱気を帯びた筆致になるような展開こそが“疑いようがない、熱いゲームレビュー”なのかもしれない。しかしそこまで求めるのは贅沢というもので、切込隊長のような人には、これからも熱のこもったゲームレビューを是非やってもらいたいところだ。
 
 

ゲームへの熱いパトスはblogでなくても構わない時代?

 
 では、切込隊長ほど文才には恵まれていない人は、どうすればいいのか?今だったら、無理にblogやwebsiteで頑張らず、他のネットツールを使うのが適当だろう。現に、多くのゲームファンは既にそうしているようにみえる。
 
 例えば、2chのまとめサイト(wiki)。
 どうせ主観的な体験を書くなら、まとめサイト(wiki)にプレイレポ(AAR)を投稿したり、2chの当該スレッドに感想を貼り付けたりしたほうが、同じゲームを愛好する人達と喜怒哀楽を共有しやすい。wikiのプレイレポや2chのスレッドは、そのゲームの愛好家以外はあまり見ない場所なので、流通性という点ではあまり優れないが、[ニーズのある人達に確実にエモーションを届けられる][興味の無い人に読まれる心配が無い]という捨て難いメリットをも有している。興味のある人と確実に熱量を共有できる場が整備されているなら、そこに感情は投げちゃえばいいじゃない、というわけだ。
 
 また、今だったらニコニコ動画という選択肢もある。ニコニコ動画では、ゲームBGMやゲーム画面を肴に、たくさんの人が熱量を共有している風景をあちこちで見かけるし、その際に才能的なものも必要ない。尤も、ニコニコ動画は集団でエモーションを共有するにはお手軽な反面、「その人だけの体験」を表現するには動画をアップするしかないという敷居の高さも併せ持っていて、一長一短であるけれど。
 
 これらのネットメディアが整備されてきたこともあって、ゲームにまつわる主観的な熱量は、その熱量を共有しやすい“狭い内輪”で流通しやすくなり、そのぶん、ネットの大海に向かって放流されることが少なくなっているかもしれない。少なくとも、書き手がわざわざblogに書き連ねようと動機づけられる確率は下がっているんじゃないかと私は推測する。なかには「あたっく系」のような素晴らしいblogも存在しないでもないけれども、現代の趨勢のなかでは例外的な存在だろう。
 
 しかしだからこそ、「あたっく系」のようなblogやwebsiteの存在は、2010年において貴重きわまりないとも言える。内輪だけでゲームの熱量を廻しやすいネット環境が整備されてもなお、あえてネットの大海に向かってパトスの籠もった記事を発信し続け、アーカイブを整備し続けるという態度には敬意を覚えずにいられない。そのようなblogやwebsiteには、長く栄えていて欲しいと思う。