シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

味音痴やコミュニケーション音痴が共通して欠いているもの

 
 「意識」である。
 
 ○○音痴の人は、ほとんどかならず○○に対する意識を欠いている。
 
 

違いを意識しない人は、違いについての熟練度が上がらない

 
 たいていの味音痴の人達は、個々の食べ物の味の違いを詳しく意識しようとしない。せいぜい、甘い、辛い、酸っぱい、渋い、ぐらいまでしか意識しない。
 
 例えば、スーパーAで購入したカツオの刺身とスーパーBで購入したカツオの刺身。この両者は、かなり高確率で味・風味・見た目に違いがある。それどころか同じスーパーで購入したカツオの刺身でも、毎回比べてみると違いが見いだせることもある(そうした違いは、産地の違い・仕入れ値の違い・流通の違い・加工の違いなどにしばしば由来する)。そうした違いを意識して「今日は鮮度がイマイチだな」と思う人と、そうした意識を全く持とうともしない人では、味に対するセンシティビティに経年変化が出るのは当然だろう。これが、あらゆる食品に対して何年も何年も違ってくるのだ。そりゃあ味覚に差が生じるのも当然である。
 
 似たようなことが、ファッション音痴の人にも当てはまる。
 
 色やプリントの有無までしか意識しない人達。
 あるいはブランド名しか意識しない人達。
 同じブランドの似たような商品でも、去年と今年で微妙な差異があるか否かを気付いて面白がる人もいれば、そういうことを一切気に留めない人もいる。ファッションのTPOに関しても、意識を持っている人・持たない人では、同じ時間を過ごしていてもセンシティビティに違いが現れるのは致し方のないところかもしれない。
 
 そして、コミュニケーションについても同じことが言える。
 相手の発言内容だけを聴き、表情は喜怒哀楽だけを確認するような人と、どう笑っているのか・どう怒っているのかの細かな表情の動きを知覚してニュアンスを推し量ろうとする人では、得られる情報の質は全く違う。意識される情報のチャンネルが言語情報だけに限定されている人と、もう少し込み入った人では、同じ時間の会話から得られるコミュニケーションの経験蓄積には大きな差が生まれるだろう。一方は相手について非常に単純な情報しか取得しないまま進歩せず、もう一方は遙かに細かい情報を拾うことに習熟していくことになる。そりゃあ、巧拙の差が大きくなるのも無理は無い。
 
 

違いがあるということを意識しない限り、違いはいつまでも分からない

 
 刺身の風味、コミュニケーション、服の色合わせや自動車の運転感覚…。
 
 どれも、違いを意識しない限りは、いつまで経っても違いがわからないし、違いが分からないからには、じつは音痴というよりはナンセンス*1という表現のほうが似合うのかもしれない。
 
 けれども、刺身の風味の違いやコミュニケーションの微妙なニュアンスというものは、習うわけでもなければ、気付くように誰かから強制されるものでもない。だから、意識をもって気付ける人はどんどん気付いて細かな経験値を稼げる一方で、気付かない人はいつまで経っても気付かないまま歳をとっていくことになる。いつまでもナンセンスのままで、「自分は味音痴だ」「コミュニケーション音痴だ」と嘆いてみたところでしようがないし、自分の向き不向きを云々してもしようがない。
 
 だから、まずは意識することが先決だと言え、自分が○○音痴だと決めつけるのは、それからでも遅くはない。
 
 

ただし、意識しすぎると参ってしまうのでご注意を

 
 ただし、のべつまくなしに意識を細かくするのが良いかというと、そうでもない。
 
 食べ物、コミュニケーション、ファッション、なんでもそうだが、常に細かい意識を持ってあれこれ気付きすぎると、今度は気付き過ぎることが負担になってしまうかもしれない。例えばフランス料理を賞味している時や恋人との初デートの時などは、意識が細かいほうが良さそうだが、一人でファーストフードを食べている時やコンビニ店員との会話の時まで細かく意識しすぎてしまうような人は、いつか神経が参ってしまうだろう。人間の精神力には、限界があるのだから。
 
 このあたり、意識を持つ/持たないの二択ではなく、必要に応じて意識レベルを調整できるようになるのが理想なのだろう。まあ、それが難しいんだけれど。
 
 

*1:文字通りの「意識無し」である