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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

“コンテンツの切れ目が縁の切れ目”――オタクは誰と会話している?

コミュニケーション

 
 
 かつての俺には、ゲームやアニメとオタク仲間さえいれば満足できる時期があった。オタク的なライフスタイルを軸にした幸福追求モデルが十分に機能し、ずっとこれからもやっていけると思いこめた時間が、確かにあったと思う。
 
 そうした生き方に綻びが生じた理由は色々あるけれど、その理由のひとつに「オタクは(そして俺は)誰と会話しているのか」という疑問があった。この疑問について、書き残しておく。
 
 

「おたく、誰と会話しているの?」

 
 「おたく」の語源が二人称だという説や、最近のライトオタク事情などを踏まえて、「オタクはコミュニケーション志向です」と主張する人もいるかもしれない。そういえばオタクの祭典・コミケも、オタク同士のコミュニケーションを一大理念として掲げていたような気がする。
 
 ところが「オタク同士のコミュニケーション」というやつが、一時期の俺には引っかかりどころだった。
 
 一般に、オタク同士の会話は、アニメならアニメ、ゲームならゲームといったコンテンツの枠をあまり逸脱しない。コミケであれ、オフ会であれ、ゲーセンであれ、常に会話の媒介物として、何かコンテンツが挟まっていなければ会話が成立しにくい。それが言い過ぎだとしても、少なくとも、会話に占めるオタクジャンルコンテンツの割合が相当に高い傾向は否めない。もし、話題として共有しているコンテンツが無くなった時、果たしてオタクはどこまで意思疎通が可能だろうか?俺の目の前にいるオタク仲間との接点はコンテンツだけなのだろうか?
 
 オタク仲間とコンテンツを共有しなくなったらどうなる?
 そのオタクとのコミュニケーションは御破算で、「縁の切れ目」になるのだろうか?
 なら、コンテンツを共有できる相手なら、別に誰でもいいんじゃないのか?
 相手が人間である必要すら、無いのかもしれない。
 
 もし、“オタクは、自分が得意なコンテンツを媒介物にしなければコミュニケート出来ない傾向が顕著”だとしたら、究極的にはオタク-コミュニケーションにとって重要なのはコンテンツのほうであって、オタク仲間という人間では無いのではないか?オタク仲間も、自分が愛好するコンテンツの重要性を確かめるための映し鏡か、コンテンツへの思い入れを木霊させるための共鳴装置としては重要でも、それ以上でもそれ以下でもない、ということになりそうだ。ならば、オタク同士がコンテンツで盛り上がっている情況というのも、人間同士が対話しているというよりは、コンテンツを媒介物としながら各自それぞれに独りよがりを膨張させているような、そういうニュアンスが優勢なのではないか
 
 こうした視線で我が身を振り返り、さらに周囲のオタク仲間を眺めやった時、俺は、自分自身がこうした構図のコミュニケーションに埋没した、コンテンツを媒介物とした“鏡地獄”の住人だと認識せざるを得なかった。
 
 当時の俺は、それなりに多くのオタク仲間と知り合って、それなりに幸福に暮らしていたと思う。
 
 けれども、話題にしているコンテンツ抜きにしても付き合っていける仲間・コンテンツを共有しなくなっても人間関係が持続する仲間というものが、そのうち何%を占めているのかを振り返った時、薄ら寒い感覚に襲われた。以来、自分自身のコミュニケーションや交友関係のあり方を、ゆっくり軌道修正していこうと決意し、現在に至っている。
 
 

“コンテンツの切れ目が、縁の切れ目”。

 
 “コンテンツの切れ目が、縁の切れ目”は、オタク界隈ではよくある現象だと思うし、インターネット空間のコミュニケーション全般も似た構図をとりやすいと思う。当たり前すぎて、もう疑問に思わない人もいるかもしれない。けれども、それが度を越えてしまったコミュニケーションというものが、一体どういう性質かを振り返った時、熱気に満ちたコミケの会場もtwitterのタイムラインも、急に物寂しい、独りぼっちのような感覚に襲われてしまう――それが、俺という人間らしい。
 
 もちろん、コミュニケーションに際して、話題になるようなコンテンツも必要ではある。
 
 初めて出会った者同士が天気の会話をするなんていうのも、考えようによってはコンテンツ媒介型のコミュニケーションと言えるだろうし、パチンコ屋やセレクトショップの会話も、コンテンツを媒介物にしていることが多いだろう。こうしたコミュニケーションの様式が有効な場面というのは、一期一会の都市空間では決して少なくない。けれども、一期一会の人間関係ではない、自分が親しみを感じている仲間に対してまで、“コンテンツの切れ目が、縁の切れ目”というのは俺には寂しすぎるらしく、せめて間近だと感じる仲間とは、もっと複線的・複合的で、モノカルチャーなコンテンツ媒介型コミュニケーションに依存しない人間関係を構築したくなる。
 
 一方で、オタク仲間やインターネットコミュニティを、自分自身と、自分の愛好するコンテンツの映し鏡・共鳴装置として割り切れる人なら、オタクのコミュニケーション様式やインターネット空間のコミュニケーション様式に疑問を差し挟む必要は無いだろう、と推定する。また、対人関係にコンテンツを媒介物として挿し込んでおくぐらいの距離感が精神衛生に良いという人も、今日日は増えているのかもしれない。だから、オタク的な・モノカルチャーなコンテンツに強く依存したコミュニケーションの善し悪しというのは、その人の精神の性質や育ち・文脈などによってかなり左右される、と考えるべきなのだろう。どのようなコミュニケーションの様式が“正解”なのかは人それぞれだろうし、同一人物でも、ある年齢に最適なコミュニケーション様式が、別の年齢でも最適とは限らない。
 
 けれども、“コンテンツの切れ目が、縁の切れ目”というドライさに耐えられない(俺のような)人間の場合は、オタク的なコンテンツ媒介型コミュニケーションを効率化するばかりの社会適応は、寂しさや自己愛のマネジメントという観点からみて危うい何かを含んでいるだろうとは直感する。もう少し複線的・複合的な人間関係を長期に渡って培っていかなければ精神の潤いを失ってしまうタイプの人間にとって、オタク的なライフスタイルに特化しすぎた生き方は、たぶん難しい。