シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

運を耕せる人と、運を耕せない人

 
 世の中には、運を耕す人と、運を耕せない人がいる。
 これは日常生活を見ていても、インターネット上を眺めていても、そうだと思う。
 
 
 「運なんて予想のつかないものじゃないか」と言う人もいるし、ある面ではその通りには違いない。幸運が舞い込むタイミングや偶然の絡んだアクシデントを正確に予期することは出来ない。だから、幸運をピンポイントで呼び込もうとしても、天気予報の無い時代に雨乞いをするより難しいだろう。
 
 けれども視点を変えるなら、幸運や不運はある程度までレギュレート可能だ。
 正確には、「幸運や不運が舞い込む確率を変動させる方法が存在する」と言うべきか。
 特に、人間関係の絡んだ運、不運についてはそうだと言える。
 
 例えば職場で、その場にいない人の悪口や短所を指摘していつも笑っているような人や、他人の心情を全く気にしない物言いをして平然としているような人は、幸運が舞い込む確率を積極的に下げているようなものだ。誰が、その人のところに良い話を持っていくだろうか?誰が、その人のためにちょっとだけの骨折りをやろうという気になるだろうか?
 
 正反対に、職場の人間関係のなかで敬意や感謝の表明を忘れず、粗雑な言動に日頃から注意している人は、幸運が舞い込む確率を上げるとまではいかなくても不用意に下げずに済んでいると言える。娑婆世界では、幸運の多くは人づてでなければ芽吹かないことを思えば、幸運の運び手となるかもしれない人と仲良く過ごす(それが無理ならせめて無闇に敵に回さないようにする)ような習慣は、あったほうがいい。
 
 幸運を種にたとえると、前者は、種の芽吹きようのない荒れ地のような人間関係でも平然としているようなもので、後者は、いつでも幸運が定着できるように整備された人間関係を耕しているようなものだ。手元に幸運が届けられる確率は、幸運を運んでくれそうな人間関係を日頃から耕している人のほうが確実に高くなる。
 
 不運についても似たことが言える。自然災害ならともかくも、世の中には、周りの人の関与によって回避できるような不運も結構ある。例えば不運に見舞われる可能性が高まっているとき、「危ないですよ」と教えてくれるか「いい気味だ」とスルーされるかは、日頃の振る舞いや人間関係によって左右される。不運の種が舞い込みそうになった時、周囲の人がブロックしてくれる確率が高いか否かによって、実際に不運が手元に舞い込む確率は変動する。
 
 このような考え方に基づいて日々の暮らしを省みると、幸運や不運・良縁や悪縁というのは、ダイレクトには制御できなくても、間接的に、期待値(確率)を変動させることが出来る、という発想に辿り着く。
  
 もし「運が悪いから運を呼びこみたい」と愚痴っている人が、高価な幸運グッズばかり買い漁っているとしたら、あまり上手い手ではない。そんなことにリソースを回すよりは、人間関係の潤滑油の整備にリソースを回したほうが現実的には効果がありそうだ。また、幸運を招くためと称して風水などに神経をつかうよりも、周囲の人間関係にこそ神経をつかったほうが、「鬼は外、福は内」の実質的な効果が得られそうではある。
 
 世の中には、こうした幸運や不運の舞い込み方に無思慮な人もいれば、注意深い人もいる。両者を比べた時、幸運が舞い込む確率・不運が舞い込む確率は、それなりに違ってくるだろうし、その差は年々溜まり溜まって蓄積していく。幸運が欲しいなら、幸運を招きやすいように日頃から気をつけるべし――「笑う門には福来たる」という諺は、確率的に考えるなら、まったくその通りだ。