シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

ゲームやアニメがライトな趣味になっても、困る人はあまりいないのでは?

 
 http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1531241.html
 
 昔、子どもじゃないのにゲームやアニメを深く追求する人達が「おたく」と呼ばれた時代があった。
 
 昔、セガサターンや深夜アニメを愛好している人達が、自嘲気味に「オタク」を自称した時代があった。
 
 ところが今はまったく違う。
 
 ゲームやアニメがコミュニケーションの触媒として――それこそ、かつてのトレンディードラマやミリオンセラーのように――用いられることに違和感がなくなっている。ゲームやアニメの話題がコミュニケーションを橋渡しするための“便利な”アイテムと化し、それどころか、ゲームやアニメのデザインがプリントされた衣服を“オシャレ”の一環として取り扱う人まで現れるようになってきた。
 
 10〜15年ほど昔、ゲームやアニメのTシャツを着ていたのは、良くも悪くも本当にゲームやアニメが好きで好きでしようがなかった(そして対人コミュニケーションなど度外視した)「おたく」だけだった。彼らにとって、外部の人間からの評価は割とどうでも良いものだったので、オシャレかどうかに関係なく、好きな作品のTシャツを着るのは自然なことでしかなかった。
 
 これが2000年前後ぐらいになると、ウケ狙いネタとしてゲームやアニメのTシャツを着るという所作が出現してくる。「オタ臭いTシャツなんてダサいやつしか着ないってわかっている。わかっているけど敢えて俺は着ちゃうゾ」的なやつだ。「ゲームやアニメが日陰の趣味だってことを知らないほど、俺は空気が読めない奴じゃないんだぜ」というエクスキューズを帯びた自称オタクというのは、市民権を得る前のオタク界隈の空気とコミュニケーションを意識しはじめた当時のオタク達の心理との化合物としては、まず自然なものだったかもしれない。*1
 
 しかし、今はそうではない。
 ゲームやアニメのTシャツがダサいと思っている思春期の人が、果たしてどれぐらいいるだろうか?特定の作品を気持ち悪がるとか、特定の集団をけなすという人なら、今でも存在するかもしれない。けれども、ジャンルとしてのアニメやゲームそのものを貶してやまない人というのは、かなり少なくなってきたのではないか。アニメやゲームは、子どもとオタクだけが楽しむモノではなく、少なくとも思春期世代なら消費していても不思議ではないモノとみなされるだけのコンセンサスを獲得したのだろう。ユニクロのゲームTシャツなどをみていると、時代は変わったんだなぁと驚くばかりである。
 
 「アニメやゲームが市民権を得る日を待ち望んでいたオタクの皆さん、おめでとうございます。あなたの夢はかないましたよ。」
 
 こう言い切っても、まず差し支え無いのではないだろうか。
 
 
 【アニメやゲームがライトな趣味になっていく道程(2004年〜)】
 
 では、アニメやゲームがライトな趣味になっていった道のりはどういうものだったのか?
 
 この機会にちょっと思い出してみようと思い、まずは自分のblogを読み返してみることにすると、既に2004年の記事に関連する話題を発見できた。
 
プチ『萌え』化しているのはオタク『コンテンツ』か、オタク『達』か?(汎適所属)
  
 以後も、アニメやゲームのライト化・秋葉原のカジュアル化を示唆する兆候があれこれとみられ、現在に至っている。
 
 
2006
オタク達は、もはや技能集団でなくなりつつある - シロクマの屑籠
ブレイクしたオタクコンテンツは、祭りとして消費されるだけでなくコミュニケーション媒体として長く利用される - シロクマの屑籠
 
2007
君がキモオタと言われるか否かは、君がコミケに通っているか否かとは関係ない - シロクマの屑籠
「想像力の欠如した」路上パフォーマーが、秋葉原の歩行者天国を危機に晒す - シロクマの屑籠 
 
2008
オタク界隈という“ガラパゴス”に、“コミュニケーション”が舶来しました - シロクマの屑籠
偉そうなオタクが減った代わりに、ジャンルを系統的に把握するオタクも減っている - シロクマの屑籠
若いライトオタクの流入と、中年オタクの難民化 - シロクマの屑籠
 
2009
コミケの理念は、膨張にどこまで耐えられるのか問題 - シロクマの屑籠
 
2010
オタクヤンキー問題 (オタクDQN問題) - シロクマの屑籠
オタクじゃない奴が入ってきた vs オタクが増えた - シロクマの屑籠
 
 オタキングこと岡田斗司夫さんは、オタクは死んだと宣言したが、なるほど、一連の流れを回想するとそう言いたくもなるのもわからなくもない。
 
 

 【アニメやゲームが市民権を得たところで、ガチなオタクは困らない】
 
 しかし、よく考えてみれば、こうした変化をダイレクトに被るのは、アニメやゲームをやってさえいれば無条件にオタクアイデンティティが得られると期待していた人達・アニメやゲームの単語さえ連呼していれば無条件に“一般人とは違う俺達”を満喫できると喜んでいた人達ぐらいのものでしかない。ライト化したのも市民権を得たのも、あくまでアニメやゲーム全般であって、私でも、あなたでもない。わりとガチなゲーオタなりアニオタなりは、今も昔も変わりなく日々のつとめに忙しいわけで、鑑賞対象となる作品が市民権を得ようが得まいが、あまり関係のないことだったりする。個々のオタクにとっては、ただ自分の好きな求道を今まで通りに追いかけていけば良いだけの話だし、カジュアル化しようがしまいが個々のジャンルや作品を愛していく道はどこまでも続いている。
 
 実際問題としては、アニメやゲームのライト化・秋葉原のカジュアル化という現象で困る「オタク」というのは、それほどいないんじゃなかろうか。
 
 周囲の状況に右往左往することなく、好きなものを追求していけばそれでいい;そのなかで、アニメやゲームをコミュニケーションの触媒としてどこまでどうやって用いるかは、それは各人の自由というものだ。
 
 

*1:いわゆる“テキストサイト界隈”の空気というのも、そうしたメンタリティと無縁ではなかった。