シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

“崇拝欲”とどう折り合いをつけていくか――ホメオパシー問題に関連して

 
 http://ameblo.jp/moonsun3/entry-10601311478.html
 
 最近、ネット上でホメオパシーや似非科学への批判を時々見かける。科学的に無根拠な“セラピー”にのめり込んでいるうちに、治療や予防の機会が失われたり、無駄なリスクを被ったりするのは悲惨の一言に尽きる。そういった事態を招くインチキ治療者は、手厳しく弾劾されて然るべきだろう。
 
 さて、インチキ治療者どもをやっつける作業は、他の人に任せるとして。
 
 私は、わかりやすい偶像を拝まずにいられないという人間の心性が大好きである。ほとんど愛していると言ってもいい。合理主義や科学的思考がこれだけ支持されているにもかかわらず、「メカニズムや統計的妥当性を度外視したまま、偶像を崇拝する」人間が後を絶たないばかりか、21世紀の科学や医学の足を引っ張っているという現象!!その是非はともかく、Scientificな検討対象として、きわめて興味深いと思う。
 
 

“崇拝欲”は、いま

 
 「メカニズムや統計的妥当性を度外視したまま、偶像を崇拝する」という現象は、なにもホメオパシーの専売特許というわけではない。例えば、小惑星イトカワから帰還した『はやぶさ』を拝むように有り難がった人達の崇拝のありさまなども、その少なからぬ割合は、科学の皮を被った偶像崇拝であって神秘主義的恍惚感を充当していたという点では変わりが無い。違うのは、人命が失われていないこと、人工衛星を拝んでも金銭を無駄遣いせずに済むところぐらいだろうか。他にも、わけのわからないパワースポットを拝んでみたり、得体の知れない金属を有り難がってみたりといった具合に、「メカニズムや統計的妥当性を度外視したまま、偶像を崇拝する」のバリエーションは幅広く、ある人はコッソリと、ある人は公然と、崇拝欲を充たしている。
 
 宗教の存在が暗に示しているように、おそらくこの手の崇拝欲は、昔からホモ・サピエンスに標準装備された“仕様”なのだろう。それを「異常心理」とか「認知障害」とか言った言葉で片付けるのは、たぶんまずいし、それなら歴史上の大半の人間が異常だという話になってしまいそうだ。人工衛星や萌えフィギュアを拝み、詐欺同然の商品をありがたがり、スピリチュアルな癒しだのパワースポットだのというものに興味を示す等の現象も、今これだけ広範囲に観察されるのをみる限り、正常心理*1の一環と推定するのが妥当だろう。
 
 この、崇拝欲に相当するようなアルカイック*2な欲求は、心理学的に分類しようとするなら、マズローで言うなら所属欲求、コフートで言うなら理想化自己対象への欲求に近いニュアンスなのだろうし、エリクソンなら発達課題の第一段階*3に対応するニードということになりそうではある。もっと遡って、象徴化symbolizationという単語に行き着いてしまう人もいるかもしれない。
 
 まあ、呼び方なんて何でもいい。とにかく、この手の執着がヒトのなかに眠っていることを認め、どうやって(セーフティに)充当していくか、という技術に、私は強い興味を覚えずにはいられない。
 
 

崇拝欲を否認するより、もっとメカニズムの理解を

 
 科学が栄える21世紀になっても、判断主体としての人間は、科学みたく合理的には振舞わない。情念や執着の赴くまま、熱くなったり冷たくなったりしてしまうのが人間で、そういった非-合理的な性質のひとつとして、崇拝欲とでもいうべきものもあるわけだ。
 
 もし、崇拝欲がホモ・サピエンスの心理的な仕様なのだとしたら……これを否認してかかるのは妥当ではないだろうし、科学は科学の立場からメカニズムの理解と対応を進めるべきだろう。偶像崇拝そのものは科学的ではなくとも、偶像崇拝を科学的に検討することは可能だろうから。
 
 これまで、現代科学や現代都市空間は、崇拝欲に対して無頓着であり過ぎた。控えめに言っても、崇拝欲を尊重したり崇拝欲を充当するためのメソッドを積極的に提供したりはしていなかった。宗教学や精神分析や芸術などは、こうした領域に多かれ少なかれ意識的だったかもしれないが、崇拝欲を穏当に充たすためのScientificな技術のようなものは、あんまり脚光を浴びていなかった、と記憶している。
 
 しかし今、崇拝欲がホメオパシーやカルトのようにリスキーな様式をとり得るのなら、もっと弊害の少ない形で崇拝欲を充たすための手法----それこそ科学的手法----の研究と実践はすごく大切な課題だろうと思う。正統医療と競合してしまうような厄介な崇拝欲充当を減らすためにも、崇拝欲全般をサイエンスの目でまなざす人が増えて欲しい。
 
 

「崇拝欲なんて我慢しろ」ではなく「崇拝欲を安全に充たせる社会」を

 
 「偶像を拝む者は何も知らない」。
 確かにそのとおりかもしれない。
 
 だとしても、人々は偶像を拝みたいという執着を心のどこかに隠しているし、そういった人間の仕様がすぐに変化するわけでもない。まして「崇拝欲のあるやつはオカシイ」などと言い出すのは論外だろう。この、興味深い人間の仕様と、折り合いをつけていかなければならない。
 
 合理的知性としての人間・理性的な人間、という部分だけを認めるだけでなく、崇拝欲に代表されるようなドロっとした欲求の存在を認め、社会的に害の少ないかたちで充当しながら暮らしていける社会になったらいいな、と願う。
 
 
 [関連]:はやぶさ神社つくろうぜ――宇宙からの“御神体”を拝んだ人達 - シロクマの屑籠
 

*1:あるいは定型心理というべきか

*2:蒼古的・太古的

*3:口唇期:基本的信頼vs不信