シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

 『うみねこのなく頃に』は、まっとうな愛を描けるか

 
 梅雨もあがり、いよいよ夏がやってきた。その筋では最大の祭典・コミケもすぐそこまでやってきている。もう準備万端という人もいれば、まだ必死に頑張っている人もいるかもしれない。
 
 07th Expansion Official Website
 
 で、コミケごとの楽しみのひとつが、07th-expansion & 竜騎士07さんの『うみねこのなく頃に』。連載は昨年の冬コミまでにEpisode6までを数え、おそらく作品の核心に迫るであろうEpisode7を、いよいよ今年の夏コミでリリースする。この長い長い作品の行く末を見守るべく、発売当日が楽しみでしようがない。
 
 以下、ここまでの流れを踏まえて、Episode7以降で注目しておきたいところを備忘録的にメモっておく。
 
 
 



 

  • 1.『うみねこのなく頃に』は様々なテーマがごった煮のようになっていて、どれを追いかけても興味深い。ちょうど『ひぐらしのなく頃に』が殺人事件推理だけがテーマだったわけではなく、信頼と結果、ベタとメタ、地域社会、などなど複数のテーマがうまく組み合わさってまとまっていたのと同じように。
  • ただ、『うみねこのなく頃に』は前作以上にあれこれ錯綜しすぎていて、うまく捉えにくいと感じることがある。ただしそれが欠点かというとそうでもなく、“作品から何を汲み出すのか”もっと言うなら“作品に何を投影して楽しむのか”のレンジを広く取っている作品なのだろうし、そうした個々人のさまざまな投影を映し出すスクリーンとしても、六軒島という舞台はよく出来ている。作中で描写された様々な六軒島ストーリー群は、それそのまま、『うみねこのなく頃に』を読んで巻き起こるファンの投影内容の幅広さと「読みたいものだけ読んでしまう」状況を皮肉っているようにも、みえる。
  • そのことも含めて『うみねこをなく頃に』に対して何を指摘しようとも、六軒島という曖昧なスクリーン装置を前にしている限りは「それがあなたの六軒島なんですね」という指摘を免れない。ここに、『うみねこのなく頃に』および六軒島が帯びている、ロールシャッハテスト的な罠がある。このあたりは、今までのEpisodeでも仄めかされてきたところ。
    • ところが、虎穴に入らずんば虎児を得ず、というか、自らの見識なり執着なり興味なりをチップとして『うみねこのなく頃に』に差し出し、意地悪なゲーム制作者にチェス盤をひっくり返されても落胆し過ぎない覚悟 or 寛容さをもって相対しなければ、このゲームをゲームとして楽しむことは難しい。そのような意味では、うみねこのなく頃にWiki FrontPage : うみねこのなく頃に まとめWikiなどで展開されている謎解き合戦などは最も正統に『うみねこのなく頃に』を楽しんでいると言えるかもしれない。ベルンカステルのごときメタな立ち位置を決め込まず、“心の賭け金を払ってのめり込め!”というのは、『ひぐらしのなく頃に』以来の、このゲームの作法らしい。いや、ゲームたるもの本来そういうものである筈で、そうである限りにおいて『うみねこのなく頃に』をゲームと呼ぶ筋にも説得力は、ある。たとえ選択肢や操作の余地があろうとも、心の賭け金を支払わないゲームはゲームではないし、喩えるなら、悔しさや地団駄の可能性に開かれているゲームこそが真にゲームなのだから。
    • 上記を考えると、ベルンカステルというキャラクターの勝算は少なそうだといわざるを得ない。彼女自身、メタを決め込んだ人間のカリカチュアのようにもみえるし。たぶん、彼女はもっと賭け金を支払わなければならない。

 
 

  • 2.Episode5-6にかけて、古戸ヱリカを軸として「言語で表現されるものだけを認め信じる」「言語で表現されるものだけを存在しているものとみなす」を極限まで押し進めた際の問題点やみっともなさを露骨に描いているようにみえた。言語を媒介物としたビジュアルノベルというゲームジャンルで、言語に極端に依存してしまった時の歪みを、なぜか竜騎士07さんは作品に盛り込もうとしているらしい。描写の是非はともかく、この趣向自体はとても興味深い。
    • ただ上記のようなややこしい問題を作中で描写することは、謎解きに熱心な一部ファンには強い訴求力があるかもしれないにせよ、コミックやアニメで『うみねこのなく頃に』を楽しんでいるファン層には、しんどすぎるんじゃないか、とも思った。『ひぐらしのなく頃に』は後半章以降も、誰でも気楽に楽しみやすい作風だったけれど、今回のEpisode5-6はそうもいかず、肩の力を抜いて楽しむには難解すぎるように感じられた。そもそもメタだし。
    • もちろん、古戸ヱリカという素晴らしいキャラクターのおかげで「理屈っぽくて性格の歪んだストーカー娘がフルボッコされる構図」という、わかりやすい娯楽性は提供されていたにせよ。
    • 制作者サイドとしてはEpisode5-6の難解さ・理屈っぽさを「マルチメディアに展開して客層を広げるうえでのリスク因子」として計算に入れているはず。それとも、あらかじめニッチな客層に顧客ターゲットを絞っているのだろうか?あるいは難解さを超えてEpisode7-8で盛り返す勝算があるのか?当然、後者なのだろうと思いたくなるけれども、このあたり、製作者サイドのインセンティブがまったく見当つかない。しかしいずれにせよ、Episode7まで来れば「広い間口」狙いなのか「客を絞っている」かが明確になるだろう、とは思う。竜騎士07さんは、どのあたりの層に対して熱烈に訴えかけるんだろう?固唾を呑んで見守りたい。

 
 

  • 3.Episode6で描かれた「愛」がひどすぎた件について、どのようなフォローがなされるのか否かも、楽しみの一つ。Episode6で示された愛は、愛というより自己愛というか、成熟していない愛というか、随分と視野狭窄した身勝手な愛だった。これらの愛は、Episode4以前でみられた*1大人達の狂騒と殆ど同質のものだし、Episode6のフルフルとゼパルはそれを茶化すために出てきたように見える。フルフルとゼパルに振り回されるのではなく、彼女達をしっかり制御できるようにならない限り、あんなものは必ず破綻せざるを得ない。 
  • Episode2-4、Episode6を通して、殺人事件のインセンティブとしての愛・自己正当化のための愛は充分すぎるほど可視化できたと思う。こんな見境の無い愛をどれだけ寄せ集めたところで彼らには未来が無いし、新生ベアトリーチェが教わってしまったのは、愛の最もグロテスクで未熟な様式だった。もし、『うみねこのなく頃に』が本当に愛の物語なんだとしたら、こうした未熟な愛を超えた、より成熟し視野の広い愛についての描写がEpisode7-8にかけて描かれなければならないのだろう。古戸ヱリカのような、打算と優越感ばかりで愛も信頼も無い世界は不毛だが、Episode6以前の人々が示したような、視野狭窄した愛もそれはそれで不毛な結果しかもたらさない。
    • もしかするとEpisode7は、こうしたダメ愛をベルンカステルがフルボッコにする回なのかもしれないし、『ひぐらしのなく頃に』からの因縁を考えれば、彼女はその適任者のようにも思える。Episode6のような形で復活した“グロテスクな愛の魔女・ベアトリーチェ”では、まっとうな形で黄金郷に辿り着けそうにないので、それを修正する役をベルンカステルが果たしてくれるかどうか。

 
 



 
 以上のような予測もまた、『うみねこのなく頃に』に私自身の興味を投影したものと言える。これは、作品への予測であると同時に、私自身のベタな執着でもある。
 
 けれどもこうやって予測をこね回しながら発売当日を待つ楽しみには、代え難いものがあると思う。自意識や黒歴史リスクを賭け金として、新作がリリースされるたびに一喜一憂し、面白がったり、顔を真っ赤にしたり真っ青になったりするのが『うみねこのなく頃に』というエンターテイメントの真骨頂なんだから、遠慮無くのめり込もう。個人的には、新Episodeのリリース前に旧作を振り返り、予測や想像を膨らませておくこの時期こそが、『ひぐらしのなく頃に』『うみねこのなく頃に』を一番楽しめている時期だと思う。コミケ当日までの間、チェス盤をひっくり返しながら楽しもうと思う。
 
 
 [関連]:ベアトリーチェをどんな風に信じるのか問題 - シロクマの屑籠
 
 

*1:ちなみにEpisode5は、ここでいうところの稚拙な愛が動機として存在しない状況を設定してみた“実験”の可能性が高そうなので現在は除外。