シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

なんで、あなたの努力を他人に判定させちゃうの?

 
 「努力しても誰も認めてもらえない。」
 「俺の努力を認めてくれないあいつらはクソ。」
 
 こんな呟きをよく見かけます。
 
 どうして、わざわざ憎たらしいアンチクショウに自分の努力の成否を判定してもらおうとするんでしょう?影でコソコソ頑張っていた自分自身も、あれこれの事情も、ロクに知らない赤の他人を審判にして、自分の努力が無駄骨だったかどうかを判定していただいて、いいことなんてあるんでしょうか?
 
 「努力の成否を他人に決めてもらう、という姿勢自体がすでに誤りのはじまり」ということを、意外と多くの人が知らなすぎます。きちんと努力を掬えるのもゴミ箱に放り出せるのも、自分自身だけなのに。
 
 

「赤の他人に、俺の努力が判定できるわけがない」

 
 世間の他人って、わりと表面的な出来事だけを見て「無駄な努力」だの「実った努力」だの好き放題言いますよね。
 
 でも、そういう他人の判断基準って、たいていは「うまくいっている=努力が実った」「うまくいってない=努力は無駄」みたいな脊髄反射みたいなものじゃないですか。個人の事情やコンテキストを忖度したうえで成否を判定している人は稀です。
 
 長年付き合っている他人ならいざ知らず、接点の少ない他人・短い時間しか共有していない他人には表面的な出来事しか見えていません。だから、こういた単純評価も仕方ないんですが、だったら尚更、他人をレフリーにして自分の努力の成否を判定してもらうのは馬鹿げています。あなたの事をなんにも知らない連中に、あなたの血と汗と涙を評価させて、それでいいんですか?
 
 
 そもそも、人生は山あり谷あり、人間万事塞翁が馬。
 
 無駄な努力や遠回りだと世間が看做していたものが、“後になってジワジワ来る”ということもありますし、平家物語のように、一時の栄華が後日の破滅のはじまりってこともあります。また、他人からみれば似たような失恋が、Aさんには「いつもと同じパターン」でしかなく、Bさんには「はじめて自分の気持ちを表現できた」という記念碑的事業ということだってあるでしょう。しかし何も知らない他人は、出来事の表層だけを見て「うまくいってるから良い努力」「うまくいってないから悪い努力」と言うだけです。
 
 こちらにも書きましたが、努力の評価なんてものは、時間の流れや自分自身の事情を踏まえて行うべきものであって、瞬間瞬間の状態だけを切り取って良し悪しを判定できるものではありません。だけど、他人には細かな事情やコンテキストなんて見えないわけですから、どうしても努力を評価する際の材料が少なくなってしまいがちです。もちろん、時間の流れやあなたの事情を詳しく知っている他人であれば、そこそこ妥当な評価ができるかもしれませんが、だとしても他人はあなた自身とは違う人間ですから、あなたに比べれば雑な努力評しか出来ないでしょう。誰も見ていないところで悔し涙を拭いていたあなた・誰もいない勉強部屋で嫌々勉強していたあなたを知って評価できるのは、実際にはあなただけです*1
 
 

自分の努力を、ちゃんと自分で評価できますか?

 
 そんなわけで、自分自身の努力の可否や努力の評価を、外部の審査員に任せてしまうのはやめちゃいましょうよ。移り気で、あなたの事情や歴史もロクに知らないような連中に、あなたの何がわかるんですか。わかるわけないでしょう。わかってもらえるわけがない。
 
 問題は「どこまで自分で自分の努力をきちんと評価できるか」でしょうか。
 
 努力の評価を他人に丸投げばかりしている人は、自分で自分の努力を評価し慣れていないかもしれません。また、自分自身が瞬間瞬間しかfeelできない人だったら、他人のぞんざいな努力評とたいして変わらないビジョンしか得られなさそうです。それに、やたらと自分に厳しくて、「常勝無敗にあらずんば、努力が実ったとは認めず」みたいな人も、自分で自分の努力を評価しづらいでしょう。ああ、逆もありますか……ほとんど何もしてなくても自分は努力し尽くしたと思いこみたがる人とか。
 
 とはいえ一般論としては、努力の評価を赤の他人に任せず、自分自身で、長い目で評価したほうが、精神衛生上も経験蓄積上も好ましい、とは言えそうです。あなたの血と汗と涙を、価値も事情もわからない他人に値踏みさせたって、良い事なんてありませんよ。第三者の評価は、第三者の評価以上でも以下でもないですし。
 

*1:尤も、口先だけの努力をアピールしつつ、何もしないで怠けていた自分を評価できるのも、あなただけですが。