日本は、八百万の国だという。
森羅万象に神を見出す日本人が、宇宙からの贈り物に神を見出すのは当然の反応である。全国には、隕石を御神体とした神社が存在する。例えば関西の妙見山や、名古屋の星宮社のように。
このたび小惑星イトカワから帰還した、はやぶさなる“御神体”が、そのような崇拝対象と同等にまなざされることに不思議は無い。
彼らにとってのはやぶさは、科学ではなく崇拝対象
Togetter - まとめ「なぜマスゴミは「はやぶさ」の快挙を伝えないの?ネット民大勝利!!みたいなの」
ここに、はやぶさを拝んだ人達の記録が残っている。
科学的で慎重な立場の人が見れば、眉をしかめるような吹き上がりっぷりに、ブックマーク上では非難と嘲笑が集中した。
確かに、彼らのフィーバーは軽率きわまりなく、「崇拝するな科学しろ」と言いたくもなるだろう。しかし、はやぶさは科学の結晶であると同時に、輝く流星となって宇宙から還ってきた神秘の象徴でもある。劇的な帰還を果たした“御神体”を前にして、理性を失いアニミズムに立ち返る人が現れるのも、無理のないことだ。
なにしろ、この国はなんにでも神が宿る。
マスクをつければ般若が現れ、萌えフィギュアにも魂が宿る。
そんな八百万の国の人間が憑かれたようにはやぶさを拝むのは、科学の目線からみれば不合理であっても心的機能からすれば妥当な反応と言える。日頃、拝むものに不自由している人達のニーズも、切実だったに違いない。
拝みたくてしようがない人達でいっぱい
21世紀の日本はハイテク化した、らしい。
けれども実際には、神を拝みたくて拝みたくてしようがない人達がそこらじゅうにいるようにみえる。御神輿ならこの際なんでも構わないという人達は、あまりグルメではないらしく、拝めるものは何でも拝むようだ――ロケットでも、スポーツ選手でも、アニメキャラの天使でも――。さらに、パワー何某やゲルマニウムが高い値段で売られているのをみるにつけても、神秘を求める気持ちが理性に勝ってしまう人達の数は相当数にのぼると推定される。
携帯電話やインターネットに囲まれて生活していても、心は今でもアニミズム。
科学的知見は神を提供しないし、またすべきでもない。しかし、科学的知見とは別個に、人々は――少なくとも相当数の日本人は――拝むに値するものを今でも何処かで求めている。生活空間に密着した神々を見失った人達が、メディアや科学的プロダクツに崇拝対象を求めてしまう現象を、ただ嘲笑すれば良いというものではないだろうし、ましてや抑圧すれば解決するものでもあるまい。
案外、もっと神社*1が必要なのかもしれない。
科学的精査が終了したら、はやぶさのパーツの一部を、いっそ、何処かにお祀りしてはどうだろうか。この国にはマンガ神社やら鉄道神社やら色々あるのだから、ロケットをお祀りする神社がつくられたって不自然ではない*2。もちろんこれは冗談だが、はやぶさを拝まずにはいられなかった人達の心的ニーズをセーフティーに充たすには、科学的知識ではなく、神社のような“装置”が必要だろう。
[関連]:「はやぶさ」と「はやぶさたん」 - 玄倉川の岸辺
[関連]:404 Blog Not Found:はやぶさvs八咫烏 - 科学も娯楽じゃだめですか?