シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

異性(他者)の理想化/適度な失望について

 
 http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20100602/1275439552
 (リンク先の文章へのお返事をかねて)
 
 
 「初恋に幻滅すること」。
 「異性に幻滅するということ」。
 より一般レベルの話としては、「他者に期待する理想のイメージを、適度な幻滅を介してマイルドなレベルに減弱させ、自分の願望や想像力の通りには振舞ってくれない他者であっても、それでもYesと言えるようになること」。
 
 こうした、他者との距離感や、他者観というのは、可能な人にはごく自然なものに違いないでしょうけど、誰もが確実に持てるようになるものでもない、と思います。
 
 id:nakamurabashiさんにとって、異性が自分の願望や想像力の通りに振舞ってくれないこと・自分が理想化したイメージと他者との間には齟齬があるということは、わりと当然と看做されているであろうとお見受けしました。例えば、

 あとあれだ。俺「幻滅」っていうことがよくわからない。まあ観鈴ちんはケバい化粧とかはしないだろうけど、もし最後に消えなきゃ恋愛とかふつうにして幸せな結婚とかしたかもしんないし、やっぱ心境の変化とかによってはおかしい化粧とか始めるかもしれない。それはキャラクターが「生きてる」以上は当然の前提だと思うわけで。

http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20100602/1275439552

 この何気ない発言、{作品中のキャラクターを、自分の願望や理想化のイメージとして認識・消費しする} という習慣ではなく {自分とは異なる存在・自分の理想や予測とは一致しない部分があって然るべき他者としてまなざす}習慣がついている人でなければ出てこないと思うんです。もし、自らの願望や理想のイメージとして“観鈴ちん”を認識・消費している人だったら、自分の理想や予測とは合致しない“観鈴ちん”の振る舞いを許容しきれず、そんなものに出会ったら憤怒や傷つきに見舞われて「こんなのはボクの“観鈴ちん”じゃない!」とか言い出しそうです。----ちょうど、『かんなぎ』のナギ様『ラブプラス』の寧々さんで、「こんなのは、ボクのイメージと違う!」という金切り声をあげた人がいたように。
 
 
 同じ傾向は、『痕』の千鶴さんについても言えます。

千鶴さんは千鶴さんで生きてるわけだし、その人生のなかでいろんなイベントあったんじゃね? 過去に彼氏の一人や二人いてもおかしくないんじゃないのっていう。

http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20100602/1275439552

 nakamurabashiさんと、少なからぬ萌えオタでは、二次元キャラをまなざす際の“前提”が根本的に異なっているような気がするんです。
 
 エロゲーやライトノベルに登場する二次元キャラというのは、“記号”や“属性データベース”という言葉をあてがっても違和感の無いような、生身の人間より遥かに少ない情報量で構成された存在です。この、少ない情報量の存在をまなざすアングルには、大きく分けるなら二つの方向性があるのではないでしょうか。
 
 1.「彼女は情報量が少ない。だからそのぶん捉えきれない(わかりきれない)。」
 2.「彼女は情報量が少ない。だからそのぶん理想化しやすい(わかったことにしやすい)。」
 
 1.は、非-初恋的で現実的なアングルです。異性について得られる情報量が少ないなら、情報量が少ないぶん、他者が自分の予測や願望どおりに振舞わない可能性は高いですし、少ない情報量をもとにした幻想や妄想はあてが外れやすいでしょう。しかしだからこそ、より深く相手のことを知ろうと目を凝らしますし、目を凝らしたうえで、自分の予測や願望や幻想とは一致しない部分もひっくるめて Yes と言えるか否かが問われます。
 
 2.は、初恋的で幻想的アングルです。1.とは反対に、異性について得られる情報量が少なければ少ないほど、そのぶん、幻想や妄想を思い通りに膨らませるには適している、という点を生かします。この場合、自分の幻想や妄想を膨らませるのに適した「自分がみたい情報だけをみる」を貫徹できるかどうかが問われます。理想や幻想とは異なる部分もひっくるめて対象にYesと言うのではなく、自分がYesと言いたい部分だけを抽出して幻想を膨らませて愉しむ、というアングルです。
 
 『萌え属性』『データベース消費』といった言葉に代表されるように、昨今の二次元キャラ消費は明らかに2.のほうがメインストリームとなって続いてきました。二次元キャラという限られた情報の束を、未知の他者を垣間見せてくれる覗き窓とみなすアングルはもはや主流ではなく、自分の願望と幻想を綿飴のように膨らませるための骨組みとして利用するアングルが主流となっているからこそ、その、自分の願望なり幻想なりのイメージにそぐわない描写にナーバスな反応が沸き上がってくる(そして事件性が生じる)のないでしょうか。
 
 もちろん、こうした1.2.のアングルのどちらか一方だけという極端な人はいっそ稀で、個々人が二次元キャラをまなざすアングルは、1.2.を両極とした数直線のどこかに位置づけられる筈です*1。それを踏まえた上で私見を述べるなら、nakamurabashiさんのアングルは1.のほうにわりと近く、現在の二次元キャラ愛好家の多くは2.のほうに近いのではないかと思っています。
 
 
 
 話は変わりますが、「他者を過剰に理想化したイメージとして見る・都合の良いイメージだけを読み取って幻想を膨らます」といったニーズは心理社会的な発達プロセスのなかで段々に減弱していく、という見地があります。(例えば)ウィニコットの『脱錯覚』やコフートの『変容性内在化』といった概念にあるような、「幻滅や失望の程度がほどよく緩やかであれば、コテコテに理想化されたイメージの塊みたいな対象でなくとも、自己愛や愛着の対象にできるようになっていく」という見方は、総論としては当たっていると私は思います。
 
 こうした幻滅や失望への“いい塩梅の慣れ”具合は、子ども時代の(主として養育者との間の)体験によって大きく左右されるでしょうし、その慣れの程度は思春期以降も転移という形で(対人関係や対コンテンツ関係のなかで)再現されやすいとも思います。しかし、子ども時代で全てが決まってしまうというのも早合点で、児童期以降の経験や対人関係のなかで修正される可能性を含んでいるようにもみえます*2。少なくとも私は、幻想や理想化のイメージに囚われ過ぎない他者観を身につけるチャンスは思春期以後にも存在すると考えています。
 
 
 以上を踏まえたうえで、
 1.「彼女は情報量が少ない。だからそのぶん捉えきれない(わかりきれない)。」
 2.「彼女は情報量が少ない。だからそのぶん理想化しやすい(わかったことにしやすい)。」
 
 を思い出すなら、2.のほうが優勢な現在の状況というのは、対人関係における成熟の停滞(または他者観の脱-イメージ の停滞)と無関係ではないと推測されます。
 
 これは、単に二次元キャラ消費にとどまらず、離婚やDVの増加、ケータイ小説やtwitterの興隆、さらには歳の取り方の分からなくなった社会などとも密接にリンクしているように思えてならないですが、そこらへんは長い話になるので、機会を改めてまとめたいと思います。
 
 それはともかく、二次元キャラに端的に示されるような、幻想を手放さず幻滅を迂回するためのメディアコンテンツが、今日日の世の中には溢れています。もちろん二次元オタクだけが幻滅の迂回を行っているわけではありませんし、二次元キャラが悪の根源とか言いたいわけでもありません。
 
 例えばこんな人達もいます;「王子様やお姫様を求めて異性に接近しては、短い時間で幻滅する」を繰り返している人達などは、現実異性に接していのに、幻想から一歩も出ようとはしません。彼らは、自分の願望や幻想のイメージに完全一致する異性に出会わない限りは失望し、自分が裏切られたと思いこみます。彼らが求めているのは、リアルで精緻な生身の他者ではなく、初恋レベルかそれ以上の幻想との一体感なのでしょう。異性とセックスしているときも、彼らは他者とセックスしているのではなく、イメージとセックスしている、と解釈できるかもしれません。たとえばこんな感じで。そうでなくても、目の前の異性のおっぱいを触っているのか・イメージのおっぱいを夢想しているのか・はたまたおっぱいを触っている自己イメージに満足しているのかは、こんがらがりやすいですし。人と人との間で授受される情報量や文脈がライトノベルのごとく疎となった社会では、こうしたイメージ先行の他者観が、現実異性を相手にしていても維持されやすい、ということは十分ありえるとは思います。
 
 メディアに耽溺していたい・見たいみたいものしかみたくない人にとって、こうした幻想への適度な失望や他者観の成熟問題は、どうでも良いことなのかもしれません。しかし、自分とは異なる他者と共に生きていく・自分とは異なる他者を養い育んでいく、ということになれば話が変わってくるでしょう。今の世の中は幻想イメージを壊さないように生きるには適していても、適度な幻滅・適度な失望を積み重ねていくには適していないようにみえてなりません。誰かと生きていくのが、とても困難な時代になりました。
 
 
 

*1:付記すると、コンテンツごとに多少のブレが一個人のなかにもある筈です

*2:もちろんすべての人が、この修正可能性に同じぐらい開かれているわけではないにしても。