「仕事をしている人は勤勉で、仕事をしていない人は怠け者。」
「仕事を頑張っている人は意志が強い。仕事を頑張れない人は意志が弱い。」
こういう物の見方は、ある瞬間は確かにその通りかもしれない。けれども、これほどあてにならない、状況次第で移ろいやすい人物把握の仕方もない。
例えば、ある中国人男性が、アフリカの山奥で、埃にまみれて一生懸命に働いている。人は彼を、勤勉だ、意志が強い、頑張っている、と呼ぶだろう。しかし彼は、つねに仕事に豊かな意味を見出せる立場にあるのかもしれない。立身出世のため・母国との一体感のため・家族のため・豊かな生活のため etc…。そういった意味が無くなった状況下でも、彼は同じように働き続けることが出来るだろうか。
逆に、ある日本人男性が、まずまずな企業に就職したのに不満が募って辞めてしまい、クーラーの効いた部屋でネットゲームに耽溺している。人は彼を、怠惰だ、意志が弱い、頑張っていない、と言うかもしれない。しかし彼は働くことに意味を見いだせる情況が与えられていなかった。いくら働いても生活水準が向上する見通しが無く、誰かのためとか、将来のためとか、そういった骨折り甲斐を一切想像できないなかでは、勤勉を貫くのは難しい。もし、そんな怠惰な彼であっても、何か意味を与えられれば----例えば病弱な妹の笑顔のために、といったような----目の色を変えて働くことがあるかもしれない。
多くの人は、その瞬間の勤勉さだけを見て、働ける働けないを値踏みする。
こいつは頑張り屋だとか、こいつは怠惰だとか断定したがる。
けれども実際には、人の勤勉さ・人のタフネス、といったものの背景には、強固な意味づけが潜んでいることがしばしばであり、逆に無気力で怠惰な状態の人が、働く意味や骨折り甲斐をすっかり奪われた結果として怠惰に陥っていることもかなりある*1。かわりばえのしない日常のなかではアパシーだった人が、ひょんなことから災害ボランティア参加するや、熱心に取り組み始めて周囲の人をびっくりさせる、という事例は珍しくない。
すべての人に当てはまるとまではいかないにせよ、かなり多くの人にとって、意味の有無は、勤勉と怠惰のクリティカルな分水嶺となっている。
また、勤勉/怠惰だけではなく、ストレスやフラストレーションに対する耐性というのも、意味の与えられている度合いによってだいぶ違う。同程度のフラストレーションでも、「この苦痛を乗り越えれば生活水準が向上する」「このストレスと引替えに、家族を養っていける」といった意味が与えられている情況と、「この苦痛に終わりは無く、意味も無い」「なんの対価も待っていないストレス」では、個人が主観的に体験するしんどさは全く違っている。一般的には、なんの意味も与えられていないストレスやフラストレーションのほうが主観的な苦痛の度合いは大きく、耐えにくい。
そういえば、ライフサイクル論で有名なエリクソンも、こんな言葉を残していた。
結局、子どもはフラストレーションからではなく、これらフラストレーションの中に社会構造的意味が欠けていたり失われていたりすることから神経症になるのである。
E.H.エリクソン『幼児期と社会』
子どもであれ大人であれ、ストレスやフラストレーションの無い生活というのは考えられない。しかし、ストレスやフラストレーションに、なんらかの意味づけが備わっているか否かによって、フラストレーションの主観的なしんどさや、メンタルヘルスを蝕む度合いは全く違う。意味づけ困難なストレスにいつまでも曝されることに、人はそれほど長くは耐えられない。
表面的な勤勉/怠惰に騙されるな
このように、見かけ上の勤勉さやストレス耐性は、その人自身がどれだけの意味を見出しているのかによって大きく左右される。意味は、勤勉やストレス耐性の関数のようなもの、と言い換えてもいいかもしれない。
だから、ある瞬間、やたら勤勉でストレスにも打たれ強い外観の人を見たからと言って、「この人は働き者」と即断するのは賢明ではない; 実は、たまたま意味に恵まれてハイパーモードになっているだけで、その意味を少しでも削られればたちまち怠惰に陥ってしまう人物、という可能性は大いにあり得る。その逆もまた然り。
勤勉/怠惰やストレス耐性の強弱を評価するにあたっては、今、その人にどれだけの意味が与えられているのかを加味して考えなければ、内実に即した評価は難しそうだ。また「その人が、どんなことにどんな意味を見出せるのか」という「意味づけの巧拙」も、勤勉やストレス耐性を考えるうえで重要な指標になるだろう*2。どちらにせよ、表面的な勤勉/怠惰をみているだけでは、人物評価はおぼつかない。