シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

新卒採用で“コミュニケーション能力”がメルクマールとなる背景

 (メルクマール:診断基準、判断基準)
 
 
 新卒者採用は「コミュニケーション力」を重視 日本の未来は暗いな\(^o^)/ - スチーム速報 VIP
 
 新卒採用についての企業アンケートをみると、ここ数年、おきまりのように『コミュニケーション能力』が上位に来る。その後に続くのが『積極性』や『協調性』というのもいかにもありがちなパターンで、それに対しインターネット上に反論が溢れかえる、という光景まで含めて、すでに予定調和と化している*1
 
 専門性や語学力などを重視するより、具体的な描写の難しい“コミュニケーション能力”とやらを重視するというのは、確かにおかしなことのようにみえるかもしれないし、その企業の未来は暗いように読めるかもしれない。
 
 けれども、最低限のコミュニケーションも協調性も無く、人間関係でちょっと揉めただけで消極性の虜になってしまうような新卒社員を、どこの企業が欲しがるだろうか?一人だけでこなせる仕事ならともかく、複数名が協力しあってプロジェクトを推進したり、地方の営業所を回していったりするような働き方がメインになるような現場に、会話も協調もろくに出来ないような“おひとりさま”を雇ったところで上手くいくわけがない。少なくとも、会話や協調といったものに慣れて経験を積んできている人のほうが、現場は上手く回りやすいだろう。
 
 どれだけ頭が良くて学識を誇る人であろうとも、集団行動に参加するノウハウが欠けすぎている人間を上手く使うのは容易ではないし、それどころか火種の要因にすらなりかねない。いや、上司に神懸かり的な能力でもあれば話は別かもしれないが、そんな神通力にばかり頼っていては上司はすぐに潰れてしまう。
 
 こうした現実を踏まえるなら、“コミュニケーション能力”というボキャブラリーが妥当か否かはともかくとして、新卒社員に対して、チームで仕事を行える能力なり経験なりを求めているのも無理はないし、また実際、組織のなかで働く社員にはチーム行動の能力は必要だろう。
 
 

「働けるやつ」の指標が、学力や成績→集団行動・共同作業の能力へ

 
 昔、まだ“コミュニケーション能力”というボキャブラリーがもてはやされていなかった時代には、集団行動や共同作業のノウハウは、現代ほど希少価値を持っていなかった。“本当の意味でのコミュニケーションの達人”はさすがに稀でも、たいていの人は、チーム一丸となって働くだとか、統率のとれた共同作業をとるといった事を、必要な時に必要なだけこなすことが出来た。現代と比べて相対的に、昔の人は集団行動や集団内での振る舞いというものを身につけていた。
 
 そのかわり、当時は高学歴や専門職の新卒が少なかった。誰もがそこそこ集団行動を身につけていた頃、学力や成績のほうが希少価値が高く、集団行動・共同作業が極端に身に付いていない新卒に遭遇する確率は比較的少なめだったのだろう。
 
 ところが現代はその逆の状態。
 
 猫も杓子も大学進学という時代になり、高学歴や専門職が珍しくなくなった。少子化にもかかわらず、高学歴な専門職のタマゴは明らかに供給過剰であり、学力や成績の希少価値は相対的に少なくなってきている。“本当に頭のいいやつ”というのは現代においても稀だが、大学の卒業証書なら、そこらじゅうに溢れている。“いわゆる学歴”を人材の可否を占うメルクマールとすることが、昔に比べて難しい時代になった。
 
 対して、コミュニケーション能力、もとい、集団行動や共同作業のノウハウを身につけて大学を卒業してくる人というのは、少なくなる一方だ。大学を卒業するまでに、集団行動や共同作業のノウハウをそこそこ身につけるということは、もはや当たり前ではなく、むしろ恵まれたことになった。学識や卒業証書だけをゲットし、集団行動のなかで自他の渡りをつけるノウハウを身につけないまま社会に出てくる人・出てきてしまえる人が増えてくれば、人材の可否を占うメルクマールとして、集団行動や共同作業のノウハウを問うのは、それなりに意味があるだろう。
 
 それに、知識の欠如は就職後に埋め合わせられなくもない*2し、知識や学識がダメなら会話力が求められる業種で活躍してもらうという手もある。
 
 ところが、集団行動や共同作業のノウハウを就職後に埋め合わせるとなると、かなり難しい。私が思うに、本を読んで知識をインストールするのに比べて、集団行動・共同作業のノウハウを身につけるには“旬”の時期というものがあるように思われ、職が決まってからの時期より職が決まらない時期・もっと言うならモラトリアムな時期を過ぎてしまうと、身につけにくいのではないかと推定する。そういうことは、少なくとも三十歳より二十歳の頃のほうが、身体的にも社会的にも、身につけやすい。
 
 そう考えるなら、企業の新卒採用において“コミュニケーション能力”という言葉が跳梁跋扈するのも当然だぁという風にみえてくる。実際に彼らが欲しがっているのは、眼力だけで他人を操れるようなコミュニケーションの達人ではなく、せいぜい、集団行動や共同作業の基本的ノウハウを身につけている人間、ということであり、独りぼっちではなくチームで共同作業するための最低限の身振りといったところだ。しかし、その最低限の身振りが希少価値を持つようになってしまっているからこそ、“コミュニケーション能力”という語彙がもてはやされるようになった、ということではないだろうか。
 
 サービス業が産業の主流になり、研究や開発もチームプロジェクトが中心になっている今、『高学歴だが他人と渡りをつけるノウハウを身につけてない人』を雇って上手くいく職種は、わりと限られよう。“ひとりぼっちの秀才”を雇った挙げ句、当事者全員が困ってしまうような事態は、企業側としても避けたいに違いない。
 
 

“コミュニケーションの達人”が入社し過ぎても困る

 
 ちなみに企業は、本当の意味でのコミュニケーションの達人をそれほど求めていないだろう、と私は考えている。なぜなら、コミュニケーションが有能すぎる人というのは、その巧みすぎるコミュニケーション能力のゆえに、いつでも欲しいだけ休暇を取ったり、いつの間にか上司と部下の関係が逆転していたり、ある日とつぜん優秀な人材を全部引き連れて起業を始めてみたり……とにかく、コントロールが難しいからだ。コミュニケーションに有能すぎる人材が、ある種の野心など持っていようものなら、相応の取り扱いをしなければ、とても面倒なことになってしまう。本当の本当の意味で“コミュニケーション能力”に優れすぎた人材というのは、一定数は必要だけれど、多ければ良いというものでもない
 
 そうではなく、ごく基本的な集団行動・共同作業のノウハウを身につけている人材をこそ、企業は期待しているだろうし、それは三十年ほど前なら「社会に出る頃には身に付いていて当たり前」だったノウハウだったと思われる。
 
 この、企業側のニーズを、あなたは「ささやかなニーズ」とみるだろうか?
 それとも「欲張りすぎ」とみるだろうか?
 
 いずれにせよ、共同作業や集団行動を度外視して働ける仕事なんて、それほど多くはないし、共同作業や集団行動のノウハウを身につけずに娑婆をわたっていくのはどのみち困難至極には違いない。企業が求める求めないにかかわらず、人と人の間で生きていくということは、そういうことではないだろうか。
 
 

*1:例えば→ http://b.hatena.ne.jp/entry/newsteam.livedoor.biz/archives/51479412.html のような

*2:勿論、系統的な学習を一応は体験してきている限りにおいて、だが。