シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

現実よりも夢だけ見ていたい父親/母親、という戦慄

 
 
 夢を見ることは、そんなに悪いことじゃない。
 
 誰しも、夢や願望を一切含まない、生の現実だけを見ているわけじゃないだろうし、その夢や願望と現実との間に多少のギャップがあってもおかしくない。しかし、夢と現実とのギャップが極端に大きくなりすぎれば問題が起こってくる。それは、政治でもビジネスでも子育てでも同じだろう。
 
 ところが最近、友人知人から「夢や願望と、現実とのギャップがメチャクチャな父兄に遭遇してビビる!」「夢の世界に生きているとしか思えない父兄に出会う!」という話を耳にする機会が増えてきた。耳にする機会が増えてきたのは、単に私の友人知人が子育てをはじめたせいだろうが、あちこちの話から察するに、そういった夢見る父兄とは結構な頻度で遭遇するらしい。PTAや地区の会合などの場で、最低一人、多い時には数人ぐらい、とてつもない夢を素で語ってしまって、しかもそのことに全く気付いていなさそうな父兄に遭遇する、というのだ。
 

【例:】 小学校のクラスメートがいじめに遭っていることへの対応について話し合っている時、ある母親が挙手してこう発言した。「じゃあ、クラスの人気者を5人集めてプリキュアになればいいと思います。悪いいじめを、みんなの力でやっつけましょう」

 
 この発言がフォーマルな会合で出て、場は凍りついたという。いじめられている子も、プリキュア役になる子も、これじゃ大変だろうに……むしろ、火に油を注いでしまいそうでもある。
 
 ほかにも、学校教師を異様に理想化してしまっている父兄・我が子をスーパーマンの卵か何かだと思い込んでいる父兄・修学旅行は親と一緒のほうが子どもは喜ぶに決まっていると確信している父兄、などなど。現実そのものよりも、見たい夢や願望を現実に投影して疑わない父兄----つまり、夢や願望の色眼鏡の程度がハンパない父兄----が、ぜんぜん珍しくないのだという。
 
 そして、こうした夢や願望と現実とのギャップにある日気付いて、“ギャップに傷ついた果てに”心療内科を訪れるというケースすら、今では珍しくない。これはとても困った、ややこしい問題である。
 
 

夢に耽溺しすぎた子育てのおっかなさ

 
 
 それにしても。
 
 「現実そのものまなざすよりも、夢と願望だけ見ていたい。」
 
 これが、アニメ鑑賞中のオタクならいざ知らず、子育ての現場で起こっているとしたら?しかもそれなりの頻度で、父兄自身もほとんど自覚していないうちに進行しているとしたら?なんだかおっかなくて、薄ら寒い話である。
 
 まず、夢を見すぎる父兄は割と簡単にモンスターペアレンツ化しそうでおっかない。見たい夢に耽溺しながら子育てしている度合いが甚だしいほど、それだけ、夢と現実のギャップは大きくなりやすそうだからだ。
 
 例えば、学校の先生に聖人君子な理想のイメージを投影しまくっている父兄は、表面的には学校の先生を崇拝しているような身振りを示すかもしれない。けれど、学校の先生を聖人君子か何かだと思いこみたがっているぶん、聖人君子のイメージからちょっと外れた兆候を見ただけでも動揺したり、怒ったり、失望してしまいやすいだろう。普通の人ならスルーできるような小さな欠点やミスでも、すぐさま怒りや失望のトリガーになるという傾向は、モンスターペアレンツの振る舞いまで、あと一歩である。*1
 
 また、正反対の処世術を採る人もいる;先生を偶像崇拝化したくてウズウズしているからこそ、生身の先生をほとんど全員「あいつはだめだ、こいつもだめだ」と非難して、いつも苛立ちを撒き散らしているような人、である*2。なお、このタイプの処世術は、“養育者として優れている自分”という夢に耽溺するにも好都合なので、自分自身をも理想化していないと気が済まない・自分自身が完璧な親だと思いこみたくてしようがない人が採用しがちな処世術でもある。
 
 
 それよりも、子どもに与える影響は、いかばかりだろうか。
 現実の子ども・等身大の子どもをみるよりも、自分の夢や願望を子どもに投影し、見たいようなイメージの色眼鏡越しにしか子どもを眺めたくない・眺めることのできない父兄に育てられたとき、子どもは一体どうなってしまうだろうか?
 
 その成れの果てを迎えたような人なら、現にそこらじゅうに転がっている。
 
 “夢見る保護者”と“醒めきった子ども”の組み合わせや、何事にも好奇心や興味がもてなくなった思春期、といったものは、センセーショナルな問題というよりは、もはや現代の定番である。20年以上前から指摘されていた構図だが、今でもあまり変わっていない。いや、むしろひどくなってさえいるかもしれない。
 
 親の夢や願望に応えて褒められるための処世術を身につけてしまったのに、親の夢や願望に応じきれなくなり、その果てに、拭いがたい劣等感を抱えこむに至った人も珍しくない。そういえば、秋葉原連続殺傷事件の被告も、親の夢や願望に応じきれずに異様な劣等感を抱え込んだ思春期の残骸だった*3。夢見心地の親の夢にあわせるべく処世術を特化させてしまった人にとって、親の夢を叶える力が自分には無いという事実に直面することは、限りなく絶望に近いし、後には何も残らない。控えめに言っても、“自分に生きる価値”や“生き甲斐”があると実感することが困難になってしまいやすい。
 
 そうした思春期の残骸と言うほかない人達を眺めるにつけても、子どもが夢をみるのではなく、親が夢を見続けられるよう子どもが期待され、使役されるという状況ってヤバすぎるんじゃないか、と私は思わずにはいられない。ときに子どもは、「親の夢を叶えることが自分の夢なんだ」という処世術を、親が望んでいる以上に身につけてしまうことがある。しかし、いったんこれを身につけ過ぎてしまうと、親の期待に応えられなくなった時、劣等感や罪責感に囚われやすくなるし、親の望みや親の視野の外で自分のフィールドを開拓していくことが困難になってしまいやすい。
 
 もちろん世の中には、こうした問題意識を鋭敏に持ちあわせている父兄いるし、子どもを介して夢に耽溺しすぎないよう戒めている父兄もたくさん存在する。けれども正反対に、どうしようもないほど夢見心地な子育てをしている父兄や、子どもを介して自分が夢に酔っていることに微塵も気付くことのない父兄が沢山いるのも事実だ。そして不幸なことに、えてして、夢に溺れる度合いのひどい人達ほど「あなた、夢みていませんか?」という問いかけは届きにくい。
 
 現実を見ず、夢だけ見ていたい父親/母親の戦慄。
 
 対応する父兄や先生がたも大変に違いないけれど、一番大変なのは、そのような父兄のもとで育つ運命と闘わなければならない、子ども自身だろうと推定される。「子育てと、親の夢」「親の夢と子どもの夢」が孕んでいるリスクについてはもっと認知されて然るべきだろうし、少なくとも私は、これからも注視していこうと思う。
 
 

*1:自分が見たい夢に溺れていられるうちは礼儀正しさを保っている人が、夢が醒めてしまいそうな現実に遭遇するたびに、たちどころに憤怒やパニックに陥って金切り声をあげずにいられないというパターンは、日本のあらゆる界隈で多発している現象だが、その背景に、夢や理想や期待と現実とのギャップの大きさが横たわっていることはもっと認識されてしかるべきだろう。

*2:ちなみに、このタイプの人のなかには、偶像崇拝イメージにおあつらえ向きの歴史的人物、例えばシュバイツァーや福沢諭吉のような人物を偶像崇拝イメージにダブらせていたりして、その基準で教師論や教育論をぶちあげてみせるような人も少なくない。逆に言うなら、生身の教育者に、伝記に載っているような偉人並みの要求をして当然だと思っている人だということでもある。

*3:もちろんこのタイプの全てが犯罪者になるというわけではない。個人的には、犯罪者になるよりも引きこもりになる確率のほうがずっと高いだろうと推定している。そういう意味では、連続殺傷に至る高い衝動性と行動力をみせていた加藤被告は、衝動性や行動力の次元において、そこらの引きこもりよりも非凡だったと言えるし、彼を理解するにあたって、この文章に書いたようなアングルだけでは充分ではないことを断っておく。