読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

最新情報をガブ呑みしていないと夢が萎んでしまう人達

執着

 
 
 あちこちで、以下のように主張している人をほとんど定期的にみかける。
 
 「地方には最新情報が何にもない」
 「CDを買いに行っても何も無い」
 「だから地方には夢がない」
 
 よくよく噛みしめれば、面白い話である。これは、働く場所が無いがために“地方に夢がない”と言っている人達とは、話のニュアンスがかなり違う。こういう人達は“地方には夢が無い”と言いつつも、ほとんど無意識のうちに以下のように言っているようなものである。
 
 「首都圏には最新情報があって」
 「オシャレなCDを売っていて」
 「だから首都圏には夢がある」
 
 最新情報に囲まれてオシャレなCDを購入していなければ、夢って、みれないものなんだろうか??
 
 

首都圏で、優越感や疾走感に包まれないと干からびちゃう人達

 
 世の中には、東京に出て、最新の情報をガブ呑みして、オシャレな音楽にうっとりしなければ夢が急速に萎んでしまう人もいれば、人口5万人ぐらいの街のJAや漁協に勤務しながら、せいぜいTSUTAYAぐらいしかCD屋がなくても夢いっぱいに生きている人もいる。しかしどうだろう、最新の情報やモノを消費しなければ夢がみられないというのは、それって、夢なんだろうか?夢だとしたら、どんな夢をみているんだろうか?
 
 あるいはこういうことなのかもしれない。
 
 首都圏で、新しい情報やオシャレガジェットをどんどん手に入れ、ライバル達より一足早いセンスを誇っていたいとか、そうやって“最先端なボク/アタシ”に自己陶酔していたいとか、そういう類を“夢”と呼んでいるんだとしたら、なるほど、という気はする。そこまで極端でなくとも、自分自身の生活やアイデンティティ、自己評価を補う為のアクセサリーの類が、地方で入手できるレベルでは満足しきれず、都会の最新ガジェットで着飾っておかなければ“人生が灰色になってしまう”という人は案外いるのかもしれない。
 
 そういう人にとっては、確かに、地方には夢が無いようにみえるのかもしれない。自分を飾り立てるためのクジャクの羽も、疾走感という錯覚に溺れるための情報洪水も地方には無いのだから。情報やモノを介した自己陶酔のハイウェイ、あるいはハイウェイ気分、というものは、地方には存在しない。
 
 けれども現実には、地方で夢をみながら生活している人というのはそれなりにいる。少なくとも、就労面の問題さえクリアできていれば「夢が無いから自意識が干からびてしまう」に陥らずに済んでいる人はたくさん存在する。文化的にも情報的にも最新鋭でなくても、別段、心のホメオスタシスになんの問題も起こらない人達が、世の中には大勢住んでいる。
 
 

ネット通販やネットツールが充実していることを思うと…

 
 また、これだけインターネットが普及した状況下では、首都圏でなければ手に入らないモノというのは、最先端の現場にいなければアクセスできない人脈ぐらいのもので、たいていの商品は、Amazonや楽天市場で購入することが出来る。単にガジェットで着飾りたいだけなら、首都圏にまで足を運ぶ必要性は極めて低くなっている。
 
 しかも、ネットコミュニケーションのツールも発達しているので、“首都圏在住でなければ同好の士が見つからない”という問題もかなりのところまで緩和された。(オフ会などのように)直接集まって会うための距離の問題は今でもネックだが、地方のマニアが完全に隔絶されるという事態は、かなり減少していると思う。
 
 このため、ただ首都圏の流行にcatch upしたいだけなら、インターネットを介することでかなりのところまで実現できるようになった。ニュースサイト、はてなブックマーク、twitterなど、首都圏の状況を伝えてくれる情報源は色々ある。ネットの情報源は、かつてはオタク趣味やコンピュータ関連の情報に大きく偏っていたが、そうした偏りも、少しずつ緩和されてきている。
 
 もちろん科学技術などの最先端分野のクリエーションに関しては、人的交流の問題などもあって、首都圏にいるのか田舎にいるのかで確かな違いというのはあるかもしれない。けれども“おしゃれなCD”を欲しがるような、ただ消費について最先端を求めたいだけの人は、それほど首都圏に拘る必要も無い筈なのだ。
 
 

最新情報のガブ呑みはいつまで続くのか?

 
 実際には、首都圏のスピードや情報の洪水をガブ呑みする生活にばかり“いきいき”を感じるタイプの人が減る様子は無い。
 
 それでもやはり、「最新情報をガブ呑みにしていないと夢が萎んでしまう」という境地に潜む、ある種の不自然感は、ときどき振り返っておくべきだろう。そんなことをしなくても幸せに過ごしている地方在住の人は幾らでもいるし、首都圏にだって、最新情報をガブ呑みしなくても上手くやっていける人は幾らでもいる。なのに、私は、彼は、「最新情報をガブ呑みしていないと夢が萎んでしまう」。もしかすると、それって、幸せというより不幸な・世渡り上手というより不器用なことではないだろうか。
 
 私の見知っている範囲では、最新情報をガブ呑みしていないと気が済まないような人達というのは、ある種の強迫性に駆り立てられているようにも見え、それをやらなければ自分が自分でいられないとでもいうような、必死で切迫した雰囲気を伴っているようにもみえた。なにか、幸せを構築するための材料を拾うために最新情報をガブ呑みしているというよりも、自分に欠けた何かから目を逸らすために・何かを忘れて今だけfeelするために、情報の洪水に溺れたがっているようにもみえた。もちろん、ネット上で見かける同種の人にも似たような感覚を覚える。
 
 何かを為すために最新情報をガブ呑みにしているのでなく、シーンとの同一化やスピード感に依存しているだけの人達のメンタリティ。あるいは最新情報をガブ呑みすることが目的化していて、最新情報を咀嚼し統合することなどどうでも良いというメンタリティ。田舎の中学生が「都会のスピードに憧れる」ならともかく、二十代三十代にもなって「都会のスピードに包まれていないと自分が自分でいられない」という心的傾向を持続させているのは、むしろ幸せや夢とは遠い境地・終わりのない苦役なのではないだろうか。彼ら/彼女らは、有象無象の最新情報を、四十になっても五十になっても、いつまでも脳味噌に詰め込み続けるつもりなのだろうか?それで夢は保たれるんだろうか?恐ろしいことだ。
 
 個人的には、「首都圏で最新情報のガブ呑みする」ことに憧れるのも、実行してみるのも、思春期のなかのプロセスの一つとしては、決して悪くないトライアルだと推測している。そういう経験も大切かもしれない。しかし、それが長期に渡って持続し、いわんや「夢をみるために不可欠」な営みと成り果ててしまった人においては、むしろ社会適応の幅を狭くし、生きるための必死さに追い回されるような事態を招いているのではなかろうか?
 
 最新情報のガブ呑みが、手段でなく目的化しちゃってるような人は、そんなの、いつまで続けるんですかね。
 
 最近では、地方にいながらにして、ネット上で*1“最新情報のガブ呑み”にしがみつき、それをもって夢見心地をつくりあげている人もあるようだ。新しい発言、新しい情報、新しい出来事…。そんな、アップトゥデートな感覚に自分を同一化していなければ“生きている感覚が得られない”などというのは、とほうもない境地だなぁと思う。たまに自分の足もとを確認するような慎重さが無ければ、前のめりに転んでしまいそうだ。
 

*1:例えばtwitterで、有名人のアカウントを追いかけて逐一最新情報を“チェック”するような