シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

心理や社会適応の“ソリューション”を読むこと・書くこと

 
 ときどき、こんなメールを頂くことがあります。
 
 「あなたのblogは、心理や社会適応について書くけれど、解決策はあまり示さない」
 と。
 
 ご指摘ごもっともで、私は、心理や社会適応についてハッキリとした解決策をblogにあまり書いていないような気がします。
 
 一方で、あたかも気軽に心理や社会適応が好転するような“ライフハック”や“魔法の言葉”は、インターネットの内外でたくさんみかけます。読みやすいソリューションっぽいものが溢れている巷の風景をみる限り、どうして答えまで書かないんだとご指摘いただくのも、なるほど、その通りかもしれない、とも思います。
 
 けれども、2000字程度の記事にソリューションが示されていて、それを読めば心理や社会適応が好転し自分の血肉になるって、どれぐらいあるんでしょうか?あるいは決定的な“魔法の言葉”というやつが、本当にあるんでしょうか?そこらへん、私、疑問です。
 
 
 

短い文章で影響を受けるって、不自然で怖いことじゃないですか?

 
 逆を考えてみてください。
 
 短いライフハック文章で解決が得られるとか、“魔法の言葉”で芯から安心が得られる、ひいては心理や社会適応が変わる、ということのほうが、むしろ不自然で恐ろしいことだと思いませんか?
 
 例えば、どこかのblogの「○○するためのライフハック」みたいな箇条書きで実際に心理や社会適応が変わる人って、逆に言えば、言葉に対する被影響性が滅茶苦茶高いってことじゃないですか?そういう人は、人から何か言葉を与えられるたびにいちいち影響を蒙るでしょうし、生活や社会適応の指針をろくに持っていない、ということかもしれません。ネット上のライフハックを脊髄反射的にありがたがる人というのは、ワイドショーのダイエット特集に右往左往する視聴者と、基本的にはなにも変わりません。売り文句やキャッチフレーズに弱くて、いつも廻し釣りされているイージーフィッシュ、とも言えるでしょう。
 
 また、“きっとあなたは大丈夫”や“ことばのサプリメント”的なもので力づけられるということは、逆に言えば、言葉ひとつで安定と不安定を行き来するような、風見鶏のような人格だということじゃないでしょうか。“元気になってくる言葉”でたちまち元気になる人というのは、逆に言えば同じぐらい“がっかりする言葉”でたちまちがっかりするに違いありません。風が吹けば吹っ飛んでしまいそうです。
 
 こうした、クラゲや流れ藻のように言葉に影響されてしまう人にとって最重要なのは、“どのような文章に出会うか”ではなく“文章からのイージーな被影響性が強すぎるのをどうするか”ということであり、また、言葉の送り手のマリオネットと化してしてしまうような主体性の不在がこそが問題でしょう。どんな言葉にもかんたんに影響されるということは、どんな言葉も「その人自身のポリシーとして定着する」ということが無い、ということとも表裏一体です。こういう人達が必要としているのは、“生活改善のための七つのライフハック”“癒しのことば”ではなく、言葉(やメディア)に対する適切なフィルタリングの問題や、自分で考えて自分のポリシーを実行するという主体性、ではないでしょうか。
 
 
 

見知らぬblogのライフハックや“魔法の言葉”は、あんまり浸透しにくい

 
 もっとも、主体性欠如の人というのはそれほど多くなく、たいていの人は、もうちょっと主体性があるものです。まただからこそ、そう簡単にライフハックや“魔法の言葉”に影響を受けませんし、他人から受け取った言葉でいきなり人生が薔薇色や黒色になったりすることもありません。
 
 もうすこし主体性のある人は、特定のコンテキスト(文脈)のなかで言葉を受け取った時に、やっと幾らかの影響を受けるのではないか、と私は考えています。
 
 どういうことかというと、文章そのものは同じでも、信頼している人から受け取るのと、軽蔑している人から受け取るのでは全く受け取り方が違ってくる、ということが人間にはよくあります。例えば、親に言われたらカチンと来る同じ言葉が、クラスメートから言われると腑に落ちる、というような経験は、誰しもあるんじゃないでしょうか。
 
 ひとつの言葉が浸透していくのか、それともどうでも良い言葉として受け流されるのかは、言葉の受け取り手と、言葉の送り手がどのような関係のなかに置かれているのか・どのような付き合いのなかで受け取られたのかにかなり依存します。字句だけを受け取って、それ以外の前後のコンテキストを読まない人というのも稀にはいるかもしれませんが、殆どの人はそうではない筈です。
 
 その点でも、blogのライフハック的文章や“魔法の言葉”は、ちょっと不利です。特に、単一記事単位で読まれることの多いようなblogの場合、「誰が書いているのか」「書き手-読み手 のコンテキストがどうであるか」が省みられにくく、こうした効果があまり期待できません。ですから、常に読んでいるblogはともかく、見知らぬblogの単一記事は、継続的に心理や社会適応を変えるような浸透をもたらす可能性が乏しいと言って差し支えないと私は考えます。
 
 
 

単一記事で完結しない読み方/書き方 を目指すということ

 
 では、「心理や社会適応に穏当なレベルでそこそこ影響を与える可能性のある文章」って、どうすればいいのでしょうか?
 
 読む側の場合、blogの単一記事だけから影響を受けるのではなく、良さそうな記事を見つけたら、そのblogの過去の記事を漁ってみるなどして、「この記事を書いたやつは何者か」「こういう表現が出てくる背景は何なのか」「信用できそうな奴なのか」「どうにも浅薄なしろものでしかないのか」などを吟味してみるのが良いような気がします。その吟味のなかで「そのblogと自分の関係」を方向付けていけば良いのではないでしょうか。
 
 blogの記事、特に文章量の少ない記事は、それ単体ではどういう背景を持った書き手が書いたものなのか判別がつきません。だったら、その単一記事単位に飛びつくのではなく、過去の記事を幾らか漁ってみればいいんじゃないか;そのうえで「気になるblog」「ときどき面白いことを言うblog」「釣りblog」といった具合に分別して、しっくりするblogにはそこそこの信頼を置いて、ゆっくりと影響を受けていけばいいのではないかと思います。
 
 対して、blogの書き手の側も、単一記事レベルでだけ読み手に影響を与えようと頑張るのではなく、ひとつの記事をきっかけに、複数の記事に目をとおしてくれる読み手の信頼なり信任なりを獲得するような積み重ねを大切にしたほうが、実質的に読者に影響を及ぼせるblogになるのではないか、という気がします。単一記事のレベルで興味を持ってもらえるのかでなく、blogそのもの・書き手そのものが興味を持ってもらえるか・信頼を得ることができるのか?そして読者とどういうコンテキストを築いていくのか?インターネット上で人気と影響力を両立させている多くのblogは、この、読者とのコンテキストの創り方にも秀でているように私には感じられます。
 
 尤も、ここらへんは、個々のblogの方向性や状況次第かもしれません。
 
 「読者への実効的な影響力はどうでもいいから、アクセス数を10000稼ぎたい」という書き方と、「アクセス数は100でいいから読者になんらかの影響をもたらすblogにしたい」では、おのずと書き方も違ってくるでしょうし、アクセス数が至上命題にならざるを得ない事情があるなら、そちらを意識すべきでしょう。
 
 しかし、もし、長い目でみて読者に影響力を浸透させやすいblogを目指すなら、単一記事で完結しない読み手/書き手 の関係なりコンテキストなりをどうするのか、という視点は必須のような気がします。数式を理解するだけで済む領域ならいざしらず、心理や社会適応のようなややこしい領域の場合、特にそうではないでしょうか。
 
 上っ面を撫でるだけではなく、誰かの心理や社会適応に残るような影響を与える、というのは、ごくわずかなレベルでも本当はとても難しいことのように思えてなりません。