シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

“たくさんの情報”は、ネットユーザーに多角的な見方をもたらすか?

 
 
 「インターネットのおかげで情報の多様性が得られて、だからネットユーザーは多角的な見方がしやすくなった」……みたいな意見を耳にすることがある。
 
 それって、どこまで本当なんだろう?
 
 まあ、インターネットに繋がれば情報のチャンネルが広がったような気はする。各種ニュースサイトやブックマーク、RSS、星空のようなfollowers、常に流れっぱなしの情報源…。かつてなら10のチャンネルしか得られなかったところが、100や1000ものチャンネルを選ぶことができる。だから、情報の多様性が得られるようになった、というところまでは確かにそのとおりかもしれない。
 
 けれども、ネットユーザーは多角的な見方がしやすくなった、というくだりは、本当にそのとおりなんだろうか?
 
 
 

1.たくさんの情報を、独りでぼっちで読むインターネット

 
 例えば、自室にこもってコタツに入ったまま、一人でネットを巡回し、目を皿のようにして『ニコニコ動画』や『twitter』に興じている彼。彼は、インターネットでほんとうに多角的な見方をゲットしているんだろうか?彼がスゴい人だったなら、確かにその通りかもしれない。けれども、滝のように情報を自分ひとりで眺めているという状況は、多角的なモノの見方を育てていくのに向いているといえるだろうか?
 
 ごく一部の賢いネットユーザーならともかく、ふつうの個人は、そんなにお利口に出来ているわけではない。だから、情報の濁流に出会ったとき、そのなかから自分に心地よい情報や、自分の欲望にストレートな情報ばかりを拾い集めてしまうのが人間のサガではないだろうか。*1
 
 この場合、ブックマークするにしても、Favoriteに登録するにしても、情報の濁流に手を伸ばして引っこ抜くのは自分ひとりだ。だとしたら、情報の大瀑布そのものが充分な多様性を持っていたとしても、取捨選択の判断基準が独りぼっちの限りは、拾ってくる情報はむしろ画一的な自分ひとりへと収束していくのではないか?そして記憶という名のバケツには、いつも似たような情報・自分の欲望におもねる情報が汲み取られるのでは?
 
 しかも、そのような“コタツの前から動かない一人ぼっちのネットユーザー”を狙い撃ちするかのように、アジテーターのこしらえた誘導ミサイルのような情報が滝の中からこちらを見つめている。読者の欲望を読むのに長け、弁舌の才に恵まれた人達が紡ぐ情報・オレ色に染まりやがれと言わんばかりのメッセージに、ディスプレイの前の個人は独りぼっちで立ち向かわなければならない。情報を受け取る側は、したたかなアジテーターと、一対一で向き合わなければならない。それも、リアルタイムに、だ。
 
 こんなシチュエーションでもなお、多角的な見方が出来る人というのは、すでに十分すぎるほど多角的な見方が出来る人か、それともメチャクチャ凄い人か、どちらかじゃないだろうか。インターネットに際して、情報選択や選好基準がディスプレイの前の独りぼっちのとき、こういう事態が多くの人に当てはまるのではないかと私は思う。
 
 

2.逆に、情報は少なくても読み手が複数の場合

 
 逆に、情報量はそれほど多くなくても、情報の読み手が複数の場合。
 
 共通の情報源なりコンテンツなりを見ている5人ぐらいの人物が、同じ場所で同じ情報を見てアレコレ議論している場合は、どうだろう?極端に発言力の大小があるわけでもなく、ある程度は共通した価値観を持ちつつも、ある程度は異なる価値観を持った人間が、5人であれこれ議論する。そして、それぞれ自分とは幾らか相容れない意見があるにせよ、お互いにいっぱしの意見として共有しあう……そういう風な状況下では、どういうことになるか?
 
 この場合、情報源という蛇口からは、滝のように情報が溢れてくるわけではない。そのかわり、一つの情報に対して、複数の判断なり意見なりがテーブルの上を飛び交うことになる。しかも、見知らぬ誰かの意見ではなく、ある程度は異なる意見も許容しあっている者同士のシチュであれば、「自分とは異なるけれども無視できない仲間の意見」というやつが、自分の意見とは異なるにしても留保される可能性がある。また、強烈なアジテーターに対しても、独りぼっちで対峙するのではなく、複数名で対峙することが可能になる。たとえ情報に魂を吸い取られかけても、5人のうち1人か2人ぐらいはカウンターになる意見を出してくれるかもしれない。あくまで「異なる価値観をそこそこ認めあっていて、極端に発言力の大小が無いような人間関係」という条件つきだが、情報の読み手が自分ひとりだけでなく、意見を融通しあえる状況のほうが、独りぼっちで大量の情報を取捨選択するよりも、むしろ多角的な見方を得やすいんじゃないだろうか。
 
 まあ、情報源の蛇口が一つしかなければビジョンの多角化にも限界があるだろうから、複数人でさえあれば情報源がどんなに少なくても構わない、というわけにもいくまいとは思う。実際には、ある程度の情報源と、異なる意見を許容しあえる複数の人間との意見交換、この両方が一定以上成立していれば、まずまず、という風に予測される。
 
 

3.異なる意見を許容しあえる“仲間”の重要性

 
 そうやって考えると、ネットライフのなかで多角的な見方を維持・発展させていく際のキーは、情報源がどれだけ広いかよりも、そこそこの情報を共有ながらも異なる意見をなんとなくプールさせられる“仲間”の有無、ではないか、という気がする。
 
 イエスマン同士の共鳴を求めるだけでなく、意見の相違から内ゲバに励むでもなく。
 
 異なる意見を認め合いながらも(または許容しあいながらも)、同じ情報に対して異なる見地を言いあえる“仲間”ができていれば、お互いに盲点をカバーしあって、大量の情報や優秀な煽動者に対峙する困難さをカバーしやすいのではないだろうか。
 
 こういう“仲間”は、匿名ネットツールのなかで一体感のフィーリングを楽しんでいるだけでは、なかなか見出し難そうにみえる。対して、twitterやSNSやblogなどを軸にした交際であれば、かなり色んなことについて意見交換したり、何かのテーマで反目しあっても仲直りを繰り返していくなかで可能になってくるかもしれない。ただし、その場合もすぐに“仲間”が得られるわけではなく、お互いに勝手を知って慣れていくまでにそれなりに時間がかかるだろう、また、インターネット上の単一フィールドだけでなく、(オフ会も含めた)多層的なやりとりを経てようやく、お互いの意見の違いや癖を認め合いながら付き合っていける土壌が仕上がる、ということもありそうだ。
 
 

4.尤も…。

 
 尤も、こうした意見の相違を許容しあえる“仲間”なり関係性なりをネット上でちゃんと築けるという時点で、その人はすでに多角的な視点がある程度は持てている、という側面はあるかもしれない。自分と他人との差異や齟齬に敏感すぎる人や、とにかく相槌を打つ/打たれるのが親密なネットコミュニケーションだと勘違いしている人にとって、こうした“仲間”なり関係性なりを時間をかけて練っていくことは、オンラインでもオフラインでも容易ではないと推測される。人と人との関係には、“雨降って地固まる”に向かいやすいものもあれば、雨が降ったらたちまち崩壊してしまうものもある。すべての関係が、ここでいう“仲間”へと発展していくわけでもないし、そう求めるすぎるのもナンセンスだろう。
 
 けれど、すぐに“仲間”が出来ないとしても、そのような関係性の価値を多少意識しながらコミュニケートするだけでも、長い目でみれば違ってくるんじゃないかという気はする。自分と同じ部分もあればちょっと違う意見もある人と、ときに喜びを共有したり、ときに摩擦を許容しあいながら、長く付き合っていける“仲間”へと落ち着いていくという経験は、オンラインでもオフラインでも、苦労のし甲斐のある経験だと思う。自分以外は信頼しない、許容もしない、という境地とは対照的だし、これが一箇所でも出来る人なら、きっと他のところでも出来るんじゃなかろうか。
 
 “3人寄れば文殊の知恵”は、お互いの意見の違いを許容しあいながらも、いっぱしの意見として認め合っている人間関係のなかでこそ成立するものであって、イエスマンとの共鳴だけを求めるネットライフでは到達できない境地だと思う。それは、オンラインでもオフラインでも同じだろう。
 
 
 [関連]:愚かさとインターネット----情報へのアクセシビリティは“愚者”に何をもたらすか - シロクマの屑籠
 
 

*1:特に、情報が他人から与えられるものではなく、自分ひとりでかき集めるものとしての性質を帯びれば帯びるほどに。