シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

“男の娘”と成熟拒否――男でも女でもない“かわいさ”を求めて

 
 「ボクは女の子になりたかったんだ」
 「ボクは男の子でいたくない」
 
 この二つは、似ているようで全然ニュアンスが違う。
 
 

オトコの娘のための変身ガイド―カワイイは女の子だけのものじゃない

オトコの娘のための変身ガイド―カワイイは女の子だけのものじゃない

  
 
 “男性オタクがカラオケで美少女キャラクターになりきって恍惚状態で歌っている”といった光景を、あなたは見たことがあるだろうか。男性オタクが美少女キャラクターに自分を重ね合わせて恍惚としているシチュは、オタク界隈ではそれほど珍しいものではなかった。*1そういった光景に出くわすみるたびに私は、「このひとは、本当は女の子になりたいのかなぁ」などと想像したりもしていた。
 
 けれども、その手の美少女コンテンツを愛好しているオタク達が志向している先は、ほんとうに女の子なんだろうか?そうではなく、なにか違ったものに憬れているんじゃないだろうか?そういう疑問を、最近とみに抱くようになってきた。
 
 きっかけは、近年のオタク界隈における“男の娘”の存在感の強まりだ。
 
 
レジーニャ!  バカとテストと召喚獣 木下秀吉 PVC塗装済み完成品

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 例えば『バカとテストと召喚獣』の木下秀吉。彼は、『このライトノベルがすごい!』2009年度/2010年度で男性キャラ部門の1位になるぐらいには人気の“男の娘”キャラである*2。しかし、この木下秀吉が典型的な美少女然としているかというと、必ずしもそうではない。
 
 スレンダーなスタイルではあっても、胸は全然出ていないし、ウエストがくびれているわけでもない。言葉遣いも、女の子のソレではなく、むしろ爺さんのようだ。いつも女装しているかというと、必ずしもそういうわけでもない。確かに“かわいい”し、男子生徒達の視線を釘付けにしてはいるけれども、作中のほかの美少女達が、身体上・行動上はっきりとした女の子らしさをみせているのとは好対照をなしている。
 
 もし、美少女だけが人気だとか、美少女に男性オタクが憬れているだけなら、もっと女の子らしいキャラクターが人気を博したっていいだろうし、木下秀吉のように中途半端なキャラクターはごく限られた支持に留まったに違いない。だが実際には、ああいうキャラクターが白昼堂々と人気を博し、“男の娘”もメジャーな属性となってしまっているわけだ。
 
 10年ほど前、精神科医の斉藤環さんが「美少女でありながら、旧来の男性的な役回りを引き受けた」“戦闘美少女”がオタク界隈で人気を博している、と著書*3のなかで紹介したことがあった。その“戦闘美少女”達は、役まわりこそ男性的だったかもしれないにせよ、姿かたちや包容力といった点ではまだまだ女性らしさを保持していたし、いわゆるボーイッシュな美少女・中性的な美少女とも違っていた。しかし歳月が流れ、どうやら新たなトレンドが生まれてきたらしい。
 
 紹介した木下秀吉に限らず、身体上も行動上も女の子らしさをあやふやにした“男の娘”や、その逆バージョンの“女の息子”*4とでも言うべき、ジェンダー/セクシャリティを曖昧にしたようなキャラクターが平然と人気を博している事実に直面すると、単なる美少女志向だけでは説明のつかないニーズの存在を勘ぐらずにいられない。
 
 

成熟拒否のための/貧困な想像力のための“男の娘”

 
 単刀直入に言えば、“男の娘”人気には、成熟拒否、それも、男性性も女性性もまっぴら御免というニュアンスがかなり含まれているのではないだろうか。
 
 成熟した男性や、男性らしい男性にはなりたくない――でも、女性になるのもそれはそれで面倒くさい。女性的な包容力や女性特有のコミュニケーションの呼吸に、憧れているわけでもマスターするだけの甲斐性があるわけでもない。かといって、いっぱしに扱われない幼児になりたいわけでもない。でも、かわいがってもらえる・特別に保護してもらえる“かわいさ”だけは欲しい――“男の娘”に自己仮託したい消費者のニーズというのは、そういう類のものではないのだろうか。
 
 男性的な成熟拒否という視点からみれば、“男の娘”にはロリコン志向に近いニュアンスが含まれているといえるかもしれない。とはいえ、幼すぎるキャラクターに自己仮託するにはかなりの妄想力想像力が求められるわけで、だれもが萌えられるわけでも一体感を感じられるわけでもない。だが、“男の娘”はそこそこ成長した状態で提供されるので、自己仮託の敷居はそこまで高くなくて済む。同じく、美少女らしい美少女キャラクターに自己仮託できるほどの妄想力想像力を持ち合わせていない貧しい想像力の持ち主でも、“男の娘”のように中途半端な存在であれば自己仮託は難しくない。ロリなキャラや、女性的すぎる美少女では自己仮託ができないような、ヌルい想像力しか持ち合わせていない消費者でもオーケー、というわけである。
 
 しかも、いわゆるオカマキャラ的な“本気で女性になりたい”という特徴をうまく回避したキャラクターに仕上げれば、本気で女性になりたいわけでもないであろう大半の男性オタクに違和感を与えるリスクも、最小化できる。もちろん木下秀吉は、これに該当する。
 
 そんなわけで、“男の娘”は、男性性も女性性もろくに引き受けなくてもノープロブレムで、しかも自己仮託のための豊かな想像力を男性オタクに要求することもない。「大人の男・大人の女としてのジェンダーもセクシャリティも迂回したがっていて、しかも貧困な想像力しか持ち合わせていないオタクでもイージーに自己仮託できるキャラクター」という意味では、なるほど、優れたコンテンツだといえる。男というセックスも女というセックスも受け容れることなく、とにかく“かわいい”と言って貰える軟着陸地点を夢見ている消費者にとっては、“男の娘”というアイコンは、自己仮託の対象として立派に役立つことだろう。
 
 

“かわいい”のひとつの終着駅としての木下秀吉

 
 成熟した男も、成熟した女も、自己仮託のアイコンにしたくないからこその“男の娘”。
 ただ“かわいい”だけの思春期、という白昼夢。
 
 今回紹介した『バカとテストと召喚獣』の木下秀吉の性別は、男でもなく、女でもなく、第三の性別とされている*5が、あれは的を射た設定だと思う。“男の娘”は、男性でもなければ女性でもない。女性になりたい男性とも違う。あの曖昧なキャラクターは、男性成熟も女性成熟も拒否して“かわいい”のニーズを追いかけて辿り着いた、ひとつの終着駅ではないか。
 
 
 

*1:ちなみに、テレビドラマ『電車男』の何話だかで、劇団ひとり扮するオタクが、魔法少女なりきり恍惚カラオケをほぼ完璧に再現している。実はテレビ版『電車男』は、2000〜2005年ごろの典型的なオタクのステロタイプを高い精度で再現している。興味のある人は是非見てもらいたい。

*2:なお、女性キャラ部門でも票を集めて健闘している

*3:斉藤環『戦闘美少女の精神分析』、太田出版、2000

*4:例えば『とある科学の超電磁砲』の御坂美琴などは、性別上は女子だが、行動や出で立ちやガタイなどは男子にも近いテイストを盛り込まれており、もちろん人気を博していた。

*5:作中では性別:秀吉