みんな余裕が無いのか、それとも潔癖な性分の人が増えているのか。
あるいは「心の綺麗なアタシ」に自惚れていたいのか。
誰もがいくらかは持っているであろう、“自分が認めたくない欲や後ろめたい衝動などを他人に見出し、激しく攻撃する”ことで心の平穏を得ようとしている人や、そのような心理的ニーズを巧みに吸収して大きな声にまとめあげてメガホンにしている人を、世間でみかけることがある。
「投影」という防衛機制
“自分のなかに潜んでいる欲や、後ろめたい衝動などを他人に見出して激しく攻撃してしまう”という現象を、“投影”と呼ぶような分類がある。
・投影(または投射) (projection)
自分が内面に持っている衝動や情動などを外在化し、(自分と別個の)外界の対象に属するものとして認識するような防衛機制を、投影と呼ぶ。自分が内側に抱えておくと不快だったり不安だったりする情動(例えば攻撃性なり性衝動なり)を対象に見いだす事を通して、自分とその情動は直接関係のないものとして心理的距離をとることが可能になるという防衛機制である。ただし、無限遠に距離がとれるわけではなく、自己と投影された情動との関連性は幾らかなりとも持続されることになる。他の防衛機制同様、やはり100%のブロックというわけにはいかない――よほど病的なケースを除いては。
この投影、自分の心をスッキリさせるにはなかなか好都合だ。
例えば、自分自身を完璧に優しくて清楚な人物だと思いこみたくてウズウズしている人にとって、自分のなかにも潜んでいる残酷さや淫らさを自覚するのは我慢ならないものがある。こうした人達にとって、投影のメカニズムはいかにもありがたい。自分よりも残酷そうにみえる人や、自分よりも淫らそうにみえる人をみつけては、「あいつは残酷だ。ひどい」とか「あいつは淫らだ。くたばれ」と攻撃している間は、自分自身の内に潜む残酷さを意識することも、自分自身のなかに潜む淫らさも意識しないで済む。そして、意識しない限りにおいては、残酷さやいやらしさを一切含まない、理想的な自己イメージに自惚れていやすい。
あるいは、自分のなかに潜んでいる感情――嫉妬、見下し、怯えなど――を認めたくないときにも投影は起こりやすい。本当は自分がとらわれているネガティブな感情を認める代わりに、他人のうちにそれらの感情を見出して強調しているうちは、主観レベルでは、それらの感情と距離をとれているかのように感じることが出来る。『機動戦士ガンダム』の第一話で、ガンダムに怯えている新兵が「へへへ、怯えてやがるぜ、こいつはよう…」と呟くシーンがあったが、あれなどは、投影という心理メカニズムを巧く描いた名シーンだった*1。
どちらの場合も、自分にも潜んでいるであろう認めがたい性質を、スクリーン代わりになる対象になすりつけ、「あなたとは違うんです」とやることによって、望ましい自己イメージを維持するという点では共通している。認めたくない自分の性質を、余所の存在に押しつけて、心のお掃除、スッキリ平穏、といったところだろうか。
あるいは心のウンコ投げとでもいうべきかもしれない。自分の心の内側に置いといたらばっちい汚物扱いのエモーションを、気に入らないやつの所に投げつけ、自分は気分爽快、というわけだ。
心の内側で十字軍をやらずに、心の外側で十字軍をやってしまう人達
もちろん、こんなのは自己欺瞞でしかない。
人間が人間である限り、強いところもあれば弱いところもあるし、節制もあれば怠惰もある。怒りや不安といったエモーションから自由な人も、滅多にいないだろう。ほんらいは清濁併せ持ったはずの人間という存在が、自分のことを完全な理想存在や聖人のように思いこんでみたところで、それは事実ではない。
まあ、これが個人的な思いこみだけで済めば、「勝手にやってろ」で済むし、どうぞ好きなだけやってください、で終了だろう。だが投影の厄介な点は、投影の押しつけ先を責めたり攻撃したり排斥したりすること・しばしば容赦というものを欠いているということだ。
自分自身の内側にあるエモーションとの戦いなら、自分自身の心の内側で十字軍ごっこをやってくれればいいのだが、投影に身を委ねる人は、自分の心の問題を、他人とのコミュニケーションのなかへと拡大させがちであり、そのための論争や闘争や運動を厭わない。自分の心の問題を他人や社会に投げかけて、クルセイダーになってしまう。
こうした、投影しまくりな正義の人というのは、寛容を共有することも、直接的に分かり合うことも難しい。話し合いなんぞをして相手の言い分を認めてしまうより、相手を理解せずに「あなたとは違うんです」メソッドを継続したほうが、心のスッキリ感や心の平穏を保つには好都合なぶん、まともな議論も成立しにくい*2。“社会の敵”と戦う前に、清濁併せ持っているであろう自分自身に対して寛容になっていただきたいものだが、それが出来ないからこそ、投影にドップリ身を委ねているという部分もあるし、そもそも自覚できているなら投影なんぞに身を委ねたりはしない。自覚できない・意識できないからこその防衛機制である以上、相手どるのはかなり難しい。
しかし、他の多くの防衛機制と同様に、投影もまた、誰もが陥る可能性のある状態であり、ある対象には冷静な人が、別の対象には凄まじい投影を呈してとりつくしまもない、ということはそれほど珍しくない。明日は、我が身かもしれない。他人の投影をみて「あなたとは違うんです」と思いこんで他山の石を決め込むのも、それはそれで投影*3と言える。気をつけたいものだ。