昨日の『自己愛充足のためのネットツール比較』では、自己愛を充たすという視点から、各種インターネットツールを比べてみました。
種類 | 反応時間 | 反応を得る確率 | 非難遭遇率 | しがらみ | 文章難易度 |
twitter(人数大) | 早い | 高確率 | 普通 | 少ない | 低 |
twitter(人数小) | 早い | まずまず | 低い | 少なめ | 低 |
普通のチャット | 早い | まずまず | 普通 | 多い | 低 |
Mixi | 普通 | まずまず | 普通 | 多い | やや低い |
ブログ | 普通 | やや低い | 使い方次第 | 少なめ | やや高い |
ウェブサイト | 遅い | 低い | 低い | 少ない | 高い |
こうやって比較すると、手っ取り早く注目や反応を得て自己愛を充たすだけなら、twitterの優位は揺ぎないようにみえます。Mixiのような“しがらみ”を避けることも出来ますし、ブログやウェブサイトに求められるような能力も求められません。文章力があまり無く、凡庸なつぶやきしかpostできない人であっても、短時間・高確率に注目や反応をゲットしやすいという点で、twitterは抜きん出ています。せっかちに反応や注目を求め、せっかちに自己愛を充たしていないと気が済まない人にとって、利便性の高いツールといえるでしょう。
けれども、このことを手放しに喜んで、とにかく反応や注目をゲットしまくるようなtwitter生活に夢中になってしまって良いものなんでしょうか?
私は、twitterで自己愛を充たすことに夢中になりすぎている有様をみると、何か、脳に電極を差し込んで、ボタンを押すと快感が得られる状態のサルがポチポチポチポチボタンを連打している姿を連想してしまいます。【簡単にリアクションが得られる・しかも即座にリアクションが得られる・そのうえ否定的なリアクションを思うがままにコントロールできる】、というtwitterの特徴は、いとも簡単にaddiction(依存)を形成してしまうのではないか、という懸念を拭うことが出来ません。あまりに便利で、あまりに敷居が低く、あまりにリアクションタイムが短い、ということは、その場の自己愛を充たすうえでは長所となり得ますが、せっかちに自己愛を求めすぎてしまう人達・歯止めのかけ方が分からない人達には、手の届きやすいリスクだということでもあります。
こうしたネットコミュニケーションツールへの依存問題は、かつて、ブログやチャットやネットゲームなども通ってきた道ではあります。けれどもtwitter以前のツールは、良くも悪くも、“しがらみ”や“炎上リスク”といった一定の抑止力のようなものが存在していて、それを超えない範囲で我慢をしながら使用するか、我慢しきれない人は退場せざるを得ないといった、限界を規定する因子が存在していました。ですから、依存を起こす人がいないわけではないにせよ、ある種、“よっぽどの人”でなければ依存を維持しきれませんでした。しかし、そういった抑止力や限界に相当するようなものがtwitterにはありません。注目や反応を集めて自己愛を充たすツールとしてあまりに優れ、あまりに簡便であるがために、あまりにもイージーに依存できてしまいます。
別に依存しちゃってもいいじゃないか……確かにそういう見方もあるかもしれません。しかし、せっかちに確実に自己愛を充たせるツールに耽溺したとして、それで得られるモノって何なんでしょうか?例えば、twitterでのイージーな自己愛の充たし方にすっかり頼りきってしまい、面倒くささや摩擦を含んだ日常生活のなかで自己愛を充たすことに否定的・消極的になっていく生き方は、福音と呼べるものなのでしょうか?有用なtwitterの使い方と言えるのでしょうか?少なくとも私は、疑問を感じずにはいられません*1。人間の日常生活すべてがtwitterのTL(タイムライン)上のやりとりだけで自己完結できるというのなら、まあ、それでも構わないのかもしれませんが…。
歴史が不在のtwitter――後には何が残るのか
しかも、twitterは自分自身のつぶやきのログは残っても、他人とのやりとりのログまでは残しにくいツールです。ログを残そうとあらかじめ意図していない限りは、自分のpost以外はTLの彼方に流れていってしまいます。もちろんブログやウェブサイトなどとは違って、まとまった議論や考察や記憶を貯蔵するにも向いていません。
あまり強調されることが無いようですが、twitterというツールには“今、その瞬間がすべてのTL”“followersの今現在しか見えない”“followersの歴史が見えにくい”という隠れた特徴があります。どれだけ呟いても、どれだけ返信しても、やりとりはその場限りのことで終わってしまいやすく、記録や記憶もなかなか残りません。この点でも、twitterは単なる刹那的な自己愛充当ツールに終わってしまうリスクが高く、後で振り返って眺めるようなディスカッションや、誰かと歴史・文脈を紡いでいくには向いていません*2。その場その場の注目や反応に右往左往するばかりのような、どうにも浅薄な使い方に徹する限りは、いくらtwitterをやっても本当に何も残らないことでしょう。もしかしたら、“思い出”すら残らないかもしれません。
「とにかく何か呟けば、反応や注目が得られて快感が得られる・自己愛が充たされる」という利便性に依存するあまり、“○○なう”と連呼するだけのtwitterモンキーになってしまうのか?それとも、もう少し工夫したtwitterの使い方や、距離を置いたtwitterの使い方が出来るのか?twitterは、その場で即座に自己愛を充たすのになまじ便利なツールだけに、そのぶんだけ使用者のリテラシーや智慧が問われるツールのように思えます。刹那的な反応や注目を求めて呟きまくっているその時間・そのエネルギーが、自分の将来どのような意味を持つのか、それとも何も残さないのか……たまにはtwitterから離れて、そういうことを振り返ってみるのも悪くないのではないでしょうか。