シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

コミュニケーション技能は『国語』よりも『体育』に近い。

 
 本屋の平積みコーナーに行くと、たいていの場合、ビジネス指南書やライフハック的な書物に混じって“コミュニケーション指南書”の類が積んであったりする。手にとってページをめくってみると、あれこれの知識やテクニックが網羅されていて、頑張って書いてあるなぁと嘆息せずにはいられない。
 
 けれでも、これらの“コミュニケーション指南書”を 勉強 しちゃってる人って結構いるんじゃないのかと思うと、無残なことだなぁ、とも思う。
 
 もし、知識をインストールさえすればコミュニケーションの技能が習得できるっていうなら、教科書でも読めば誰もがコミュニケーションに困らなくなるだろうし、“お勉強熱心な人達”はいまごろコミュニケーションがメキメキ上達して、猛威を振るっていることだろう。でも、現実にはそうなっていないし、実際、“コミュニケーション指南書”をたくさん読んだからといってコミュニケーションの達人になれるわけでもない。そして、本をほとんど読まないけれどもコミュニケーションに優れた人など幾らでもいる。
 
 そこのところ、勘違いしている人・勘違いしたがっている人が、世の中にはまだまだいるんじゃないですかね?
 
 

“コミュニケーション指南書”を読むだけの人は“スポーツ教本”を読むだけの人

 
 もう、タイトルだけでなかば言い尽くした感じもするけど、要は“コミュニケーション指南書”ってのは“スポーツ教本”みたいなものであって、『国語』や『社会』の教科書とは全然性質が異なるものなんだと思う。
 
 スポーツの教本は、実践や練習のなかで読んだり、アドバイスの一環として取り入れたりするぶんには、とても役に立つ。けれどもスポーツの教本は、ただ読むだけでは決して上達しない。実際にテニスコートやゲレンデに出なければスポーツは上達するものではないし、基礎体力の鍛錬・インストラクターの指導・そして何より実践や練習の積み重ね といったものへのプラスαの触媒として導入してはじめて、役に立つ。
 
 “コミュニケーション指南書”も、実はこれにかなり近い。
 
 実践や練習の補助として読むぶんには、きっと役に立つだろうし、例外的に、礼儀作法やマナーのような、実際に知識としてインストールするだけで即戦力になるような分野が無いわけでもない。けれども、コミュニケーションってのは、知識だけでやるモンじゃない。言葉のテンプレートを応酬するだけのものじゃなく、身振りや手振り、目鼻の動きや声音のイントネーションなどを駆使した、きわめて身体的な営みだということを、多くの人が忘れたがっている*1
 
 コミュニケーションを学校の授業にたとえると、多くの人が『国語』を連想するかもしれないけど、僕は、『体育』を連想せずにはいられない。もちろん、インターネット上のような文字だけのフィールドでなら、国語の答案を解くようなゆっくりとしたスピードで言葉探しをすればいいかもしれないけれども、“コミュニケーション指南書”に期待されているような実地の対人コミュニケーションってのは、そんな言葉の正解探しをしている暇は無い。人対人のコミュニケーションは、しばしば、国語の答案どころかキャッチボールの速度ですら超えて、テニスのストロークぐらいの速度で進んでいくことも多い。しかも、身体能力や自律神経をかなり試されたりもする。
 
 だから、コミュニケーションを『国語』や『社会』と同じような 勉強 の仕方で学んでも、得られるものはあまりないと僕は思う。“コミュニケーション指南書”を読みはしても実践や練習を怠る人というのは、さしづめ、テニスの教本は読んでもテニスコートを敬遠する人や、スキーの教本は読んでもゲレンデには出てこない人のようなものだ。そんな調子で、コミュニケーションの技能が上達するとしたら、奇跡としか言いようがない。
 
 

実践や練習を欠いた“コミュニケーションの勉強”など役に立つものか。

 
 世の中には、テキストブックを読んで暗記すればどうにかなる分野もあれば、実践や練習が主でテキストブックを従とする分野もある。そのなかで、コミュニケーションというやつはどう考えても後者に近い。ここはひとつ、スポーツや『体育』に近い分野だと思って、実践や練習の積み重ねをメインとして、テキストブックからの学習はあくまで参考程度とするのが、まっとうなスキルアップの道だろう。
 
 コミュニケーションというやつを、『国語』っぽく捉えている人は、ご注意を。
 
 
 

*1:特に、本を読んで勉強しよう、とかいう風な人達の場合は