シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

『Kanon』『Air』『CLANNAD』から、次の十年を展望してみよう

 
 
 
 ゼロ年代もあと少し。十年間の変化を振り返りたくなるとともに、次の十年がどうなっていくのかを考えたい時期でもあると思う。人間関係の世界でも、趣味の世界でも、実存の領域でも。
 
 この記事では、ビジュアルノベルのなかでも人気があり、同一制作陣によってつくられた3つの作品(『Kanon』→『Air』→『Clannad』)を振り返りつつ、次の十年について展望してみたいと思う。
 
 

セカイ系としての『Kanon』

 
 ゼロ年代、特にその前半のオタク界隈において無視できない作風としてセカイ系が挙げられるが、『Kanon』は、その代表的な作品のひとつと考えて差し支え無いだろう。『Kanon』が描き出しているのは、「個々のヒロインの命運の鍵を主人公が握っている世界の、きみとぼく」であり、逆に言えば「ぼくが手を差し伸べない限りはヒロインの命運は絶えてしまうという思いあがった心象風景」がまかり通る世界でもある。
 
 『Kanon』のようなセカイ系作品では、男性主人公と、その対象となるヒロインの二者関係だけクローズアップされ、その二者関係と物語の舞台世界がリンクされてもいる…としばしば言われている。しかし実際にはセカイ系作品群の二者関係は、厳密な意味では二者関係ではない。ヒロインは、男性主人公の「女の子を救ってあげる全能感」を鏡のように映しだすための舞台装置でしかなく、彼女自身の意志や自律性はまともに忖度されていない。そもそも、セカイ系的な「ぼくが手を差し伸べない限りはヒロインの命運は(そしてセカイも)だめになってしまう」という世界観は、自分以外の他者の自律性や意志といったものに不感症でなければ成立しえないはずなわけで。
 
 とどのつまり、セカイ系というのは可哀相なヒロイン達を映し鏡にして「僕が女の子を救ってあげる万能感」「僕がセカイの命運を握っているような全能感」を充たすというニュアンスが強い作品群であり、そのために可哀相なヒロイン達が(プレイヤーの全能感を鏡映するための舞台装置として)描写される、という構造を有している。そこに存在するのは、ヒロインやセカイに自在にコミットできる自分自身と、それを保証するために動員される可哀相な女の子達だけでしかない。
 
 この『Kanon』のような構図はもちろん強い批判を集め、例えば評論家の宇野常寛さんは“レイプファンタジー”と呼んで痛烈に批判した。また、オタク界隈の内部からも、古くは『君が望む永遠』、新しくは『シュタインズゲート』などの作品には、こうしたセカイ系的な全能感に対する批判的メッセージが込められている。にも関わらず、セカイ系的な構図はその後も一定の支持を集め続け、全能感に飢えた男の子達を慰撫するためのヒーリングアイテムとして、今でもそれなりに消費されている。
 
 

“母子関係の束縛”が主題の『Air』

 
 『Kanon』ではセカイ系的ニュアンスが濃厚なのに対して、後発の『Air』ではセカイ系的ニュアンスはあまりみられない。プレイヤー(と主人公)は、全能感に耽溺することを許されない。主人公の立ち位置は、Summer編では神奈備命を助けられずに死んでいく者として、Air編ではほとんど傍観者に近いカラスの立ち位置にまで後退してしまっている。
 
 それよりも『Air』の作中で目に付くのは、「母子関係の束縛」だ。他者に深入りすると身体が不調になってしまう神尾観鈴の呪いは、遥か昔、母親から神奈へと継承された鳥族の力と、それを封印するためにかけられた呪術が、代々受け継がれたものだった。このメインストーリーに限らず、『Air』では執拗なほど「母から子へと伝えられる呪縛」の物語がパラフレーズされる。死んだ母親についての霧島佳乃のストーリー、母から忘れられた遠野美凪のストーリーは、一見オマケのようにみえるが、「母子関係の束縛」という主題では一貫性が保たれているのであって、オマケではない。そして、実の母娘ではないにせよ、晴子と観鈴との関係が「ゴール」するにいたってようやく、800年間受け継がれてきた呪縛が解けて物語は幕を閉じる。
 
 『Air』はじつによく出来ていて、作品を切り取るアングル次第で様々な断面をみせてくれる作品だと思う。しかし、作中すべてのストーリーを貫いている通奏低音は何かといわれると、少なくともそれはセカイ系ではなく、母から子どもへ伝えられる束縛や呪縛と、そこからの解放だと答えるのが妥当だろう。『Air』はまず第一に、「母」と「子」の物語であり、「母から子へと継承される呪縛」の物語だ。しかもこの呪縛が“母が娘に対して最善を尽くしてはいるにも関わらず不可避である”*1という点が、非常に示唆的だ。
 
 

そして「父性」の『CLANNAD』へ。

 
 そして、『CLANNAD』である。
 三つの作品のなかでは最も新しいこの作品を、どう見るか?
 
 まず、これをセカイ系かどうかというと、到底セカイ系とは言い難い。実父、渚の両親、そして汐といった具合に、どう頑張ってもセカイ系的な自己耽溺には邪魔な人達とのやりとりが数多く描かれている。また、芳野祐介や春原といった男性サブキャラ陣も、『CLANNAD』では単なる脇役キャラクターには終わっておらず、要所要所で大きな存在感を示している。
 
 かと言って、母子関係の束縛というアングルでこの作品を眺めやっても、得られるものは少ない。早苗と渚の間に情緒的/運命的な束縛の伝承があるかというと、殆ど感じられないし、他のキャラクターのシナリオにも母性の束縛が影を落としている兆候はみられない。少なくとも『Air』のように、一大障壁として立ちはだかるという風ではない。
 
 むしろ、『CLANNAD』において繰り返し登場するテーマといえば「父と子」や「父性」のほうだろう。
 
 主人公の岡崎朋也は、尊敬できない父親にいつも苛立っていて、父との和解もままならないうちに自分自身も父となる。そして紆余曲折を経てようやく父親と和解した後、彼自身もまた父親の生き方をなぞるように、娘のために死力を尽くす道を選んでいく。これこそが『CLANNAD』の大黒柱になるストーリーで、それを下支えする格好で、サブストーリーでは人と人の縁が結びついていくさまが描写されている*2
 
 ところで、「父性」って何だろうか。
 少し古いテキストになるが、小此木啓吾『自己愛人間』から引用したうえで、説明してみよう。
 

 …ですから母と子の世界というのは絶対的でもあるし、社会以前の感覚的自己愛的な世界です。そこに父親と母親の子ども三者関係が成立したときに、初めて自己愛的な世界ではない、第三者が入り込んだより理性的な世界が成立するわけです。
 
 ラカンはこのことをとても強調しています。父の名をもったときに、初めてその子どもは社会的な存在になるということです。パーソナルな自己愛だけの子どもが、社会的な存在になるのは、父の名にふさわしいものになる過程なのです。
 
   小此木啓吾『自己愛人間』  筑摩書房、1992、P207-208

 
 つまり、「父性」というニュアンスが指し示しているのは、単なる血縁上の父親ではない。
 母子関係という二者だけで完結した世界に社会的アングルを与えてくれる第三者の存在・ともすれば母子関係に引きこもってしまいそうな子どもと社会との間を取り持ってくれる存在、としてのニュアンスも含んでいる。だから、「父性」に相当するニュアンスを授けてくれる担当者が、実父だけである必要は必ずしも無い。ときには親戚のおじさんが、ときには近所のおっさんが、ときには兄が、それを部分的に引き受けることだってある。
 
 この「父性」をキーワードとして『CLANNAD』という作品を振り返ってみると、主人公は、渚と結婚し実父と和解するまでの間に、実にたくさんの「父性」に遭遇していることに気付く。主要なところだけ挙げると、
 
 
 ・古河秋生(渚の父親)
 ・幸村俊夫(渚の卒業式、など)
 ・芳野祐介(職場で面倒をみてくれた先輩)
 
 こうした人達とのやりとりが下準備にあってはじめて、主人公の岡崎朋也はようやく実父と和解することができた。物語冒頭の朋也は、「父性」を欠いているとまではいかないにしても、きわめて未成熟な状態だった。けれども、実父に代わって「父性」を提供してくれる人達との出会いのなかで少しずつ自分自身の「父性」を養っていき、最終的には実父との和解へと至ったのである。
 
 この視点からみると、ゲーム版『CLANNAD』の後半ルート分岐は、いかにも意味深である。渚と結婚するルートにいきなり突入しても、朋也は娘を幸せにすることが出来ないし、それどころかすべてを失ってしまう。しかし、あちこちのサブストーリーのフラグを解決して「父性」の薫陶を十分に受けた後のコースでは、汐や渚を幸せにすることが可能になる。主人公のうちに「父性」が十分に内在化した後でなければ、『CLANNAD』のハッピーエンドは訪れない。
 
 

“母子の束縛を解呪する「父性」”という視点から『Air』を振り返ってみよう

 
 『CLANNAD』が「父性」の物語だと認識したうえで、もう一度『Air』を振り返ってみよう。
 
 言うまでも無く、『Air』にはまともな父親らしい登場人物が出てこない。母だの姉だの妹だの、そういう方面ばかりである。そして、Dream編,Summer編,Air編、いずれの場合も、母子関係の束縛が、ヒロイン達を苛んでいる。そういった束縛状況が、第三者としての主人公がコミットすることによって状況が変わっていく。Dream編の霧島佳乃と遠野美凪のストーリーが、典型的である。
 
 ところが、神尾観鈴の場合はそうはいかない。なにせ800年間母から娘へと受け継がれてきた呪縛だけあって、コミットした主人公のほうを逆に呪い殺してしまう。神奈備命を解放しようとした柳也を死に追いやった呪いが神尾観鈴にも継承されていて、独りぼっちの彼女にコミットする者を引き離してしまうか、しからずんば呪い殺してしまうのだ。
 
 Air編の主人公はカラスの姿に身をやつして、殆ど傍観者のようなポジションにたたされることになったが、それでもどうにか神尾観鈴にかかっていた呪いは解け、呪縛から開放された子ども達を祝福して物語は終幕した。神奈備命〜神尾観鈴へと受け継がれていた束縛を解いたのは、柳也〜主人公へと受け継がれた「父性」によるコミットだった。もし、晴子と観鈴の二人だけの閉じた世界が続いていたとしたら、母子関係の束縛はおそらく再生産され、ああいう結末には至らなかっただろう。母子関係の束縛を解放するには、第三者としての男性----「父性」に相当するところの男性----が必要だったのである。
 
 『Air』は母子の呪縛がメインテーマの作品だが、この『Air』の時点で既に、母子関係の呪縛を解呪する第三者としての「父性」が描かれていて、多大な犠牲を払いながらも娘達の精神を解放した、というポイントは着眼に値する。『Air』の母性の束縛の物語は、「父性」によって終止符が打たれた。そして「父性」の物語は『CLANNAD』へと受け継がれ、結実することになる。
 
 

「セカイ系」や「母子の呪縛」を超えてみえてくる10'年代、とは

 
 ゼロ年代の十年間、オタク界隈において*3支配的だったのは、セカイ系的な想像力や、母子関係の呪縛に絡めとられた想像力だったと私は思っている。では、その続きは何か?どうすればこれらの束縛から開放されるのか?その答えを、『CLANNAD』は暗示しているんじゃないかと思う。
 
 つまり「父性」による「母子関係の束縛」の解毒、である。
 
 ここで注意しなければならないのは、「母子関係」を“破壊する”わけではないということだ。
 
 『CLANNAD』には、ふんだんに「父性」が登場するけれども、だからといって「母性」が登場しないわけではない。ましてや、「父性」と「母性」が主導権争いを繰り広げるわけでもない。古河家や芳野家に端的にあらわれているように、「父性」と「母性」が優越性を競い合ったり病理的共依存を呈したりするのではなく、互いに良い所を与えあいながら長期的な共同体をつくりあげていく姿こそが『CLANNAD』には相応しい。いま「父性」が求められているとしても、それが「母性」と対立したり、「母性」を悪者扱いにするようなものではあるまい。大切なのは、「父性」と「母性」が調和を示すということ、または、「父性」と「母性」がバランスの良い拮抗を呈することではないだろうか。
 
 Keyの三部作は、しばしば、時代の数年先を照らし出す。
 10'年代は、「父性」の復興について議論される時代になるんじゃないか。
 半分は私の当て推量、半分は『CLANNAD』からの推測、だが、そろそろ「父性」のターンが来てもおかしくはない。
 

CLANNAD FULL VOICE

CLANNAD FULL VOICE

AIR ベスト版

AIR ベスト版

Kanon ~Standard Edition~ 全年齢対象版

Kanon ~Standard Edition~ 全年齢対象版

*1:いや、むしろ母が娘に最善を尽くしている「からこそ」なのかもしれないが

*2:ちなみに、この“街の人同士の縁が網状に結びついていくさま”は、ゲーム版よりもアニメ版のほうが明確に拾いとりやすいと思う。確認してみたい人にはアニメ版がお勧め

*3:…というよりは、世間全体において、と言い直して構わないかもしれない。国政のトップとして「セカイ系」っぽさの濃厚な人物が選ばれているのをみるにつけても。