シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「子どもはいらない」は価値観の多様化じゃなく、メジャー化じゃないの?

 
 
 http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091205/stt0912052219005-n1.htm
 痛いニュース(ノ∀`) : 20〜30歳代の6割が「子ども必要ない」…内閣府調査 - ライブドアブログ
 
 内閣府の世論調査によれば、「結婚しても必ずしも子どもを持つ必要はない」という考えが42.8%にも達したという。20〜30代だけに絞れば、六割に達するらしい。数字としてはかなり高いパーセンテージだ。
 
 この調査結果に、内閣府の担当者は「個人の生き方の多様化が進んでいる」とコメントしたらしい。けれどこれって、多様化って呼んでいいんですかね?
 
 昭和時代であれば「結婚すれば子どもを持つのが当たり前」という価値観がすごく根強かったわけで、そんな時代に「結婚しても必ずしも子どもを持つ必要は無い」という人が増加したなら、なるほど価値観が多様になってきたことを示していると言えそうだ。昔は、経済的事情だの労働条件だのに関係なく、じつに画一的に子育てが礼賛されていたのだから。
 
 けれども、平成になって既に20年。「結婚すれば子どもを持つのが当たり前」が社会のメジャーな価値観とは到底思えない。むしろ20代〜30代にとってデフォルトの価値観は「結婚しても必ずしも子どもを持つ必要はない」のほうだろう。
 
 勿論、そんな20代〜30代の夫婦であっても、結果として子どもをもうける夫婦のほうが割合的には多いかもしれない。しかし彼らにしたところで「結婚すれば子どもを持つのが当たり前」とは思っていまい。「結婚しても子どもを持たないという選択肢もアリ」という価値観こそが、昨今ではメジャーなんじゃないだろうか。還暦前後の世代ならともかく、今時の夫婦世代で「子どもを持つのが当たり前」などというレトロな価値観にしがみついている人に出会うことはそんなに多くはない。
 
 だからこういう世論調査の結果をみると、私はむしろ価値観が多様化しているというよりは、メジャーな価値観が昭和のソレから平成のソレへと順調に変わっているだけなんじゃないかと感じる。旧来はメジャーだった「結婚したら子どもを持って当然」という価値観がマイナーな価値観へと没落していき、旧来はマイナーだった「結婚しても必ずしも子どもを持つ必要はない」という価値観がメジャーな価値観へと台頭していくプロセスを、ただ眺めているだけなんじゃないか。
 
 疑問に思うなら、「結婚したら子どもを持つのが当然」という価値観を職場や学校で言いふらしてみればいい。年配世代の多い職場なら大丈夫かもしれないが、20〜30代が中心の職場だったらドン引きされるだろう。「結婚しても必ずしも子どもを持つ必要はない」は、既にじゅうぶんにメジャーな価値観であり、その回答が増えるということは、価値観の多様化というよりむしろ画一化にすら近い。もちろん、夫婦の自由意志の尊重という観点からみて、悪くない画一化ではあるが。
 
 

社会的要請としての「子育て」から、個人的要請としての「子育て」へ

  
 この変化を、ちょっと視点を変えて「誰がための子育て」という見方で考えてみる。
 
 遠い昔、クニのために多産が奨励されてみたり、イエというシステムの維持のために子育てを強要されたりした時代があった。当時の子育ては、単に夫婦だけのためにではなく、より大きな共同体ユニットのためというニュアンスをも多分に含んでいた。「子どもをつくり育てる」ということは、夫婦の欲求や願望だけで完結できてしまうものではなく、より社会的な文脈のなかにも位置づけられ、まただからこそ「結婚すれば子どもをもうけるのは当然」「結婚して子どもをつくらないのはおかしい」という風にも言われやすかったのだろう。
 
 けれども今は違う。クニやイエのために出産しようとか思う夫婦は滅多にいるものではない*1。子どもを持つという選択・子育てをするという選択は、現在、社会的要請から切り離されているようにみえる……少なくとも、夫婦が体感するレベルでは「子育てしろよ」という社会的要請が重くのしかかってくることは稀である。とっくの昔に「子育て」は社会的要請としてするものではなく、夫婦の個人的要請にもとづいて選択するものになっていると言ってしまって構わない。
 
 このアングルで今回の調査結果を眺めると、「子育て」のイニシアチブが社会的要請から個人的要請に委譲されたんだなぁと改めて確認できる。昔だったら「夫婦自身の生活が貧しくなるから」「恋人気分が薄れるから」などといった理由で子育てを控えておくことなど許容されなかっただろう。だが、クニやイエが子育ての風景から退けば、夫婦は自由に「子育て」の指針を決定することができる。子どもを三人つくろうが、一人だけにしようが、全く産まないでおこうが、すべては夫婦の決定次第である。子どもをつくらない理由だって、どんな理由だって構わない。経済的な困難のためだろうが、恋人気分優先のためだろうが、自己実現優先のためだろうが、なんだっていっこうに構わない*2
 
 
 現在の夫婦は、子育てに対してさまざまに異なったポリシーを持てるようになっており、この現象を「生き方の多様化」と呼ぶことはもちろんは可能だとは思う。けれども、[昔のメジャーな価値観から新しいメジャーな価値観]への転換、あるいは[子育ての社会的要請から個人的要請への変化]、といった見方でみると、ひとつの価値観がメジャー化していくプロセスとして捉えたほうが似合うような気がする。そして、いくら「生き方の多様化」と言っても、夫婦の欲求や願望だけに舵取りされているという点ではいずれの家庭も同じで、“ある種の個人主義的な特徴を呈しているかもしれない”点は省みておきたい。すなわち、「子どもをもうける場合も、子どもをもうけない場合も、どちらにしても、夫婦の欲求や願望に基づく形で、それは決定される」のだから。
 

*1:ただし、現在でもきわめて稀に、ある種の旧家で、イエのために出産しろと嫁に圧力をかけるような家庭をみかけることがある。そのような状況に置かれた嫁は、深刻な適応上の問題に曝されることがある。

*2:ちなみに、自己実現のために子どもをもうける、などという凄く転倒した風景も時にはあったりするのだから人間心理というのはつくづく複雑だ。