シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

ひたすら「順応」はまずいとしても、それでも「適応」は大切では?

 
 
 http://diamond.jp/series/izumiya02/10005/
 
 インターネット上で、「適応」について批判的な文章を発見した。上記リンク先では、封建的な企業や偏狭な独裁者に「適応」することを例示しながら、「適応」とは「麻痺」ではないかという見方がしめされている。そして、詩人の歌を引用しつつ「適応という名の麻痺」からの決別を礼賛している。
 
 しかし、それはそれで随分と偏ったビジョンなんじゃないだろうか。
 違和感を覚えたので、自分なりに「適応」や「適応障害」について考えていることを書いてみようと思う。
 
 

「適応」が問題なのではなく「順応」や「過剰適応」が問題ではないのか

 
 まず、リンク先の「適応」のニュアンスに注意を払っておきたい。

「適応」とは、外的環境に対して自分を変化させて、うまく合わせられるようになることを指します。しかし、その際に自分の内部に起こる変化とは、どんな内容なのでしょうか。

http://diamond.jp/series/izumiya02/10005/

 この引用も含め、リンク先の「適応」の定義はおかしい。「外的環境に自分が合わせる」だけが適応なのではなく、「自分に外的環境を合わせる」よう働きかけることもまた適応の筈なのに、そういうニュアンスが欠落している。一方的に受身になって環境の奴隷になることが適応なのではなく、環境をむしろ自分に適合させること、環境にコミットすることもまた適応という言葉の持つ重要なニュアンスである。一応、手元の精神医学事典からの抜粋を紹介しておこう。
 

【適応】adjustment
 環境や状況の中で、その要請にも応じ、同時に自らの要求をも生かし、(環境側の刻々の変化と、自らの要求の質・量の変化にも応じつつ)、著しい葛藤や不安を経験することなしに生活することを適応という。
 
 (弘文堂 新版精神医学事典 より抜粋)

 リンク先で語られている「適応」は、事典に書かれている定義とは異なっていて、環境に対してより受動的なニュアンスをもって「適応」とみなしている。だが、それは適応adjustmentというよりは順応adaptationというニュアンスに近い*1
 
 ストレスフルな環境を受動的にひたすら耐えることを「適応adjustment」とは呼ばない。あるいは他の言葉をあてがうなら「過剰適応」という言葉のほうがよく似合う。
 
 周囲の空気を読みまくって忍従のスクールライフを過ごしたり、暴圧的な経営体制のもとで馬車馬のごとく続けるというのはメンタルヘルス上、確かに望ましくないし、それを「麻痺」と呼んで再考を促す指摘そのものは妥当だと思う。けれども、それをもって「適応なんてろくなもんじゃねぇ!」というのは、語義上、ちょっと筋違いではないだろうか。再考すべき「麻痺」は「ひたすら順応」であったり「過剰適応」のほうであって、適応全般ではない。
 
 

過小適応も、それはそれで問題じゃないんですか?

 
 そもそも、適応をというものを度外視できるような状況というのが、有史以来、人類にあっただろうか?
 
 なるほど、満員電車、効率至上主義、味気ない建造物、これらに慣れなくて済むならそれに越したことは無いかもしれない。だが、それらに一切順応することなく首都圏で生活するのは不可能に近い。じゃあ、それらの無い世界なら適応を度外視できるかというとそんなわけもなく、地方には地方の、下町には下町の、環境からのストレスがあった筈である。また、いかなる世界・いかなる時代においても、人間関係の軋轢や摩擦はあった筈で、狩猟採集社会でも、古代ローマでも、ヴィクトリア王朝下のロンドンでも、人間関係との相互作用から無縁であった人間など存在するわけがない。そういう環境因子との相互作用のなかで、人間は生きてきたのではなかったか。
 
 だから環境への適応を忌避すればそれで良しという識見は、それはそれで相当にヤバい筈で、「過剰適応」も「過小適応」も、どちらも度が過ぎれば大問題にならざるを得ないし、それこそ「適応障害」は避けられない。
 
 断固として「麻痺」を拒んで----つまり断固として適応を退けて----それで生きていけるセカイというのは形而上の千年王国のなかにしか無いと私は思うのだが、如何だろうか?
 
 

ストレスから遠ざけるだけが「適応障害」の治療!?

 
 ところで、「適応障害」にはどのような治療が必要だろうか?
 「環境の中にあるストレス因子の除去が優先されるべき」としても、それだけだろうか?
 
 少し長くなるが、カプラン臨床精神医学テキスト(第二版)の『適応障害』の項から幾つか抜粋してみよう。
 

 適応障害は、1つまたはいくつかのストレス因子によって引き起こされると定義されている。障害の重症度は、ストレスの強度やストレスそのものによって常に予測できるとは限らない。ストレスの強度は程度、量、期間、可逆性、環境、個人的な状況といったものからなる複雑な関数である。例えば、親をなくすことの意味は10歳と40歳とでは異なる。人格構造や、文化あるいは集団の価値基準によってもストレス因子に対する反応は違ったものとなる。

 個人の持っている素養や背景、文脈によって、「適応障害」が起こるかどうかは左右される。とにかくストレスを遠ざければ良いというような単純な話ではないニュアンスが、既にこの文章から伝わってくる。
 

 適応障害を理解するための主要な3つの軸とは、 (1)ストレス因子の性質 (2)ストレス因子の意識的、無意識的意味 (3)元来個人に備わっている脆弱性  である。パーソナリティ障害や器質的障害を抱えていると適応障害を起こしやすい。幼少時に親を亡くした場合や、機能不全に陥っている家族に養育された場合も同様である。重要な人物との関係を通して実際に経験される心理的な支えが、ストレスに対する行動や情緒の反応に影響することがある。

 そして、ストレス因子を遠ざればそれで良しというのではなく、ストレス因子を巡る文脈(意味)、当人の脆弱性、といったものを勘案しなければならないともなっている。「適応障害」を考えるにあたって、ストレス因子だけの問題に着眼するのは片手落ちである点は、記憶されて然るべきだろう。
 

 適応障害ではストレス因子を明確に記述できるため、精神療法の必要性はなく、障害は自然に緩解するとしばしば考えられてしまう。しかしこの視点は、同様のストレス因子にさらされた人々が同じように症状を呈するわけではないことや、適応障害においてはその反応が病理学的意義をもつことを見逃している。精神療法は、ストレス因子が取り除けないかもしくは時間によって解決されない性質である場合には、そのストレス因子への適応を助け、ストレス因子が緩和していく性質である場合には予防的介入手段となる。適応障害を治療する精神科医は二次的疾病利得の問題に特に注意を払う必要がある。今まで、疾病によって責任から解放された経験のない健康な人々に対しては、疾病は利益を与え得る。
(中略)
精神科医は、患者を彼らの行動によって生じた結果から救おうとするべきではない。そのような親切心は、いたずらに社会的に容認できない緊張緩和手段を助長するだけで、洞察を経て情緒が成熟していく過程を妨げる。

 
 「適応障害」の治療について考える際には、治療者が“永遠の松葉杖”や“退行への片道切符”になってしまわぬよう、できる限りの留意が必要でもある。環境の調整や鞍替えはもちろん大切だが、クライアントからストレス因子を遠ざけることだけ意識するあまり、クライアントの未来選択肢をかえって狭めてしまったり、ビニールハウスの外では生きていけない人物を量産したりするような事態は、避けるべく意識しておきたい。その手のリスクに対して「とにかく環境を変える」「ストレスを遠ざければ勝ち」といった単純な発想は、あまりにもイノセントに過ぎるし、むしろクライアントの未来可能性を奪ってしまうことになりかねない。
 
 

おわりに

 
 最後に、敢えて私はこう問いかけてみたい。
 
 環境に応じることと環境に働きかけること----適応すること----を度外視できる生活は、本当に理想的なのだろうか?
 
 「適応」を「麻痺」と言い換えて断固として拒むような在り方を、無邪気に称賛して良いものだろうか?
 
 
 私達は、(人間関係も含めた)環境との相互作用のなかで生きていて、その時代、その地域、その人に見合った適応スタイルを構築していく。確かに、辛さや摩擦を含んではいるかもしれない。だが、それでも、そのなかで最善を尽くして自分なりの生き方を日々模索しアレンジしていく過程のなかでこそ、人は自分自身の生き方や持ち味を見出していくのではないだろうか。
 
 ストレスや環境が、心身を損ねる原因になることがあるのは確かだし、それに対応していくことがメンタルヘルス上、喫緊の課題だというのはよくわかる。けれども、ストレスや環境との相互作用の中でこそ、人は、自分のライフスタイルや個性、歴史といったものを構築していけるのではないのか。つまり、「適応が人を壊す」という悪い面だけでなく、「適応が人を創る」という望ましい面もあるのだとしたら?そこまで踏まえて考えるかぎり、「適応」を「麻痺」と言い換えて断固として拒むような在り方を、私は無邪気に称賛するわけにはいかない。
 
 
 リンク先の文章を書いているのは、精神科医のなかでも精神療法*2で名を馳せていらっしゃる方なので、もちろんこうした点についても知悉したうえで“あえて”発言なさっているんだとは思う。しかし、であればこそ、「適応」というテーマを取り扱う手つきに繊細さを期待したくなるし、「適応」と「順応」を混同しているかのようにみえるレトリックには注意深くあっていただきたいと願う。
 
 

カプラン臨床精神医学テキストDSM‐IV‐TR診断基準の臨床への展開

カプラン臨床精神医学テキストDSM‐IV‐TR診断基準の臨床への展開

  • 作者: ベンジャミン・J.サドック,バージニア・A.サドック,Virginia Alcott Sadock,Benjamin James Sadock,井上令一,四宮滋子
  • 出版社/メーカー: メディカルサイエンスインターナショナル
  • 発売日: 2004/11
  • メディア: 単行本
  • クリック: 23回
  • この商品を含むブログ (8件) を見る
 

*1:なお、この事典では「適応」と「順応」の違いのひとつとして、こう書かれている:「全人格的反応として順応が用いられることがあるにしても、それは外的圧力への“受身の適合”という意味である。積極的な個体の側からの働きかけという、適応に含まれる意味は乏しい」

*2:※心理療法、と言い換えても差し支えないと思う