シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「高すぎるプライド」を「高すぎる要求水準」として省みる

 
 高すぎるプライドと“恥”の感覚 - シロクマの屑籠
 
 高すぎるプライドを抱えて生きるというのは、非常に大変なことだ。とりわけ、プライドと能力のギャップが大きい人は、常に満ち足りない気持ちを抱えて生きていくほかない。こうした苦悩を幾らかでも緩和する方法は無いものか?
 
 試しに、「高すぎるプライド」というやつを、ちょっと違った視点から眺めてみる。
 
 上手くいってない人の「高すぎるプライド」というのは、「高すぎる要求水準」に言い換えて近似できる場合が多い。自分自身に対して「俺はこうでなければ気が済まない」「本来の俺はこうであるべきだ」と思っている人は、現実の自分よりも高くて厳しい水準を、自分自身に対して要求していると言える。もちろん、これが適度なギャップであれば、“向上心”にも繋がるわけで、ギャップがあることそのものがいけないわけではない。しかし、あまりにも大きなギャップのせいで心が折れてしまいやすいとすれば、少しぐらいハードルの高さを下げたほうが、様々なチャレンジに挑みやすかろう。
 
 また、「高すぎるプライド」が自分にではなく、他人に対して発揮される心境----「俺は評価されて当然」「周囲から特別なレスポンスがないと気が済まない」という心境----は、他人に対して「高すぎる要求水準」になってしまっているとも言える。いつの間にか、他人に対して求めるハードルを釣り上げ、そのハードルを越えてくれないから不満を募らせる、というのは、(自分自身に対しても、相手に対しても)精神衛生にあまり優しくない。
 
 「高すぎる要求水準」が、自分のほうを向いた場合であれ、他人のほうを向いた場合であれ、ギャップの大きなハードル超えは破綻を生じやすく、うまい具合の向上心にも繋がらない。けれども、こういう「高すぎる要求水準」というのは、意識して吊り上げるものではなく、知らず知らずのうちに上がってしまっているものだ。家族・友人・自分自身に対し、無意識のうちに法外な要求を突きつけてしまって、陥らなくても良かった筈の揉め事や自縄自縛を招いてしまったような経験は、誰だって一度や二度はあると思う。
 
 けれども、そういう我が身を振り返ってみれば、少しぐらいはハードルを下げることも出来るかもしれない。
 
 意識さえすれば「高すぎる要求水準」を下げることが出来るのか?と言うと、必ずしもそうではなかろう。けれども、自分や他人に求めるハードルというのは放っておくと勝手に高くなっていってしまうことが多いので、折に触れて我が身を振り返ってみることには、それなりの意義があると思う。少なくとも、「高すぎる要求水準」つまり「高すぎるプライド」による自縄自縛を緩和する一助にはなるだろう。
 
 自分自身や他人に対して息苦しさを感じてきた時や、どうもプライドが邪魔をして面倒なことになっているような時には、自分の(他人や自分自身に対する)要求水準がどんな状態になっているか、振り返ってみると良さげ。もしかしたら、現状の苦しみは自分で自分のハードルを吊り上げているせいかもしれない。