シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

ド近眼な合理主義にはまりこんで、未来をまなざせない人達

 
 

要約

 
 ・一言で合理的と言っても、近視的で短慮きわまりないものから、深慮遠謀と呼べるものまで様々である。
 
 ・ド近眼な合理主義者は、短期的な適応を守ることは出来ても、中〜長期的な適応を見通せない。
 
 ・彼らの多くは、未来を想像する力が足りないか、未来から目を背けたがっているか、どちらかである。
 
 ・ド近眼な合理主義は、中〜長期的な社会適応はともかく、不安から心を守るには向いている。
 
 

一言で合理的判断と言っても、ド近眼のものから深慮遠謀までさまざま。

 
 むしろ昨今のオタク趣味は、合理的判断の結果なんです - Dog Planet Cafe 〜 犬惑星 〜
 
 オタクの合理性、ねぇ。
 確かに、彼らを合理主義者と呼べなくはない。
 
 とにかくリスクを回避した生き方を選び、安全パイな遊びや人間関係を指向する。家族や恋愛よりも、ギャルゲーや風俗を選択するという彼らは、消費者としていかにも合理的、ということが出来そうである。
 
 けれども、そういう合理主義って、そんなにたいしたもんですかね?
 
 一言で合理主義と言っても、まなざせる未来の射程距離は様々だし、未来を予測するための“方程式”もピンキリだ。せいぜい一ヶ月ぐらい先のことまでしか計算できない人物だって、彼は彼なりの合理性に基づいて行動するし、その結果、一年後二年後に悲惨な人生が待っていたとしても、それは彼が非合理的に考えたからではなく、彼の合理主義の方程式が拙かっただけのことでしかない
 
 例えば、バブル時代にフリーターを積極的に選んで今困っている人達だって、バブルの頃には彼なりの勝算なり、彼なりの理があったに違いない。けれども彼らの合理主義は未来をまなざす射程距離が短すぎたか、未来を予測するための“方程式”が随分とズサンだったがために、予期しなかった困難に遭遇しているわけだ。
 
 いくら合理的に考え合理的に行動しているからと言って、未来の不幸を回避できるとは限らない。合理的に考える際の未来の射程距離が短すぎたり、未来を予測するための“方程式”がズサンであれば、どれだけ合理的に考え行動してみたところで、予測とは全く異なった将来が待っていることは明らかである。
 
 私は、この手のリスク回避的な合理性をやたら強調する人物にたくさん出会ったことがあるが、彼らに五年先、十年先の未来予想図を聴いてみて、まともな答えを得たためしがない。そのくせ、彼らの未来予測の“方程式”は、あたかも「自分の想定していないファクター*1など存在しない」かのような、キツキツの“方程式”ばかりである。家族を持つことのリスクは想定していてもメリットはまったく想定していないし、騙されまい騙されまいとして一人で生きることのメリットは想定していても、そのこと自体が孕むリスクには無頓着である。短期的な社会適応しか勘案しないなら、こういう近視的な合理性に身を委ねていても構わないかもしれないが、そんなことでは中〜長期的な社会適応を見通すことなど覚束ないんじゃないだろうか。
 
 せめて、自分の未来予測の“方程式”が、自分の執着を反映したファクターに偏りがちであるという前提のもとで、自らの合理性に身を委ねるぐらいの姿勢が適当ではないだろうか。「人間が考え出す合理性の“方程式”には必ず穴がある」という前提すら踏まえることもできないような合理主義は、人智の限界を弁えぬ傲慢な思いこみでしかない。視野の狭さにふさわしい破綻が、必ず待っているだろう。
 
 

ド近眼な合理主義に陥ってしまう理由

 
 では、どういう人がどういう理由でド近眼な合理主義に陥ってしまうのか?
 
 ひとつには、ごく単純に、未来を予測したり合理主義の“方程式”を紡ぎ出すための根本的な想像力を欠いている、という場合があるだろう。極端な話、その日その日の状況しか未来予測の“方程式”の計算に用いることが出来ないような人は、超ド近眼な合理性しか持つことが出来ないわけで、そんな合理性に身を委ねてみたところで、中〜長期的な社会適応はまったくわからない。
 
 けれども、昨今のオタク、あるいは昨今の青少年に多いのはそういうタイプではないと思う。未来をまなざしたくなかったり、中〜長期的な未来を勘案することに伴う痛みや不安を回避したり……もっと言うなら、嫌なこと・痛いこと・危ないことをやらずに済ませるために、automaticに近視的な合理主義にはまりこんでいる人が多いようにみえる。
 
 中〜長期的な未来の可能性を耕すにあたっては、時には痛みを引き受け“断崖の橋を渡るような”リスクを侵さなければならない場面もあるだろう。しかし、痛みに直面できないほど脆弱だったり、今この場のリスクを回避することが最優先の人達にとって、中〜長期的な未来のために傷みやリスクを引き受けなければならないと認めるのは、気分の良いことではないし、たぶん不安を招くことにもなろう。しかも、問題を認知してはいても放置するのは非合理的でもある。
 
 そこで、意識してというよりむしろ無意識のうちに、彼らは視野狭窄を起こして、近視的な合理主義へと溺れていくのではないだろうか。不愉快な感触や不安に耐えられない人にとっては、近視眼というのも悪くはない----やたらと様々なものが見えてしまうよりは、みたくないものがみえないようなド近眼になってしまったほうが、人は安心できるものである。ド近眼な合理主義を奉じて「俺は未来を十分見通したうえで行動する合理主義者だ」と思いこんでいる限りは、不愉快な気分や不安に襲われることもなく、安逸のうちに過ごすことができよう。こうした、心理的背景に由来したド近眼な合理主義は、中〜長期的な社会適応はさておき、今現在の自分の行動選択を正当化し、不愉快な気分や不安から身を守るには、まぁ最適といえる。
 
 リスクヘッジだけをひたすら心がけて、安全パイだけを選び続けるオタク達。いや、オタクに限った話というよりは、昨今の青少年に多いタイプなのかもしれない。痛みや不安を回避したがるあまり、安全パイばかりに拘って勝負どころを見極めようとしない麻雀のような状態に陥っている合理主義は、果たして、未来を見据えるにあたって最適な“方程式”といえるのだろうか?
 
 
 [参考:]–h‰q‹@§|‡—‰»

*1:あるいは“関数”と言うべきか