シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

“コミュ力”は差異化ゲーム/優越感ゲームに適しているか否か

 
 2009-08-29 - 古田ラジオの日記「Welcome To Madchester」
 
 『「他人との差異化がサブカルチャーの領域では困難になりはじめ、かわって、基礎的なコミュニケーションスキル/スペックの領域(以下文中ではコミュ力と略する。)で他人との差異化が行われるようになってくるのではないか」。』
 
 幾つかの理由から、私はそう予想しない。
 以下、コミュ力を優越感ゲーム/差異化ゲームに用いることについて、いろいろ考えてみたいと思う。
 
 
 
 【1】
 
 はじめに確認しておきたいのは、「コミュ力の優劣が問われるという状況自体は太古の昔から続いているもので、今に始まったものではない」ということだ。ジャンルという名の古井戸に引きこもって差異化ゲームや優越感ゲームに興じてきた人にとって、基礎的なコミュ力が容赦なく問われる状況というのは目新しく感じられるかもしれないが、世間的にみれば目新しいものではない。身分や階級が問題にならない現代社会においては無論のこと、階級社会の時代においてさえも、他人を値踏みするにあたって/自分が他人に値踏みされるにあたって、総体としてのコミュ力は無視しがたいファクターだったと私は確信している。
 
 ただし、以下のように言うことならば出来るかもしれない;
 『コミュ力の問題を気にしなくて良い安全地帯としてのサブカルチャー界隈/オタク界隈は、今急速に失われている』*1。従来、マイナーなサブカルジャンルが世間から距離を置くための避難場所として役立つということはあっただろうし、そういう場所でなら、コミュニケーションのスキルやスペックを不問に付したまま優越感やアイデンティティをゲットするのも容易だったかもしれない。
 
 だが、オタク趣味であれサブカルチャーであれ、メジャーになってくればくるほどコミュ力に敏感な新参者を迎えざるを得なくなってくるし、そうなればコミュ力を不問に付したまま優越感やアイデンティティをゲットするのも困難になってこよう。実際、こちらこちらに書いたように、オタク界隈ではメジャー化はゆっくりと確実に進行し続けている。ジャンルとしてのメジャー度が高くなれば、薀蓄の深さよりもコミュニケーションスキル/スペックを重視する人が増えてくる。こればかりはどうしようもない。
 
 
 
 【2】
 
 もうひとつ指摘しておきたいのは、コミュ力は、それ単体では優越感のゲットやアイデンティティの確立には向いてそうにない、ということだ。コミュ力は、汎用性の高さでは抜きん出てはいるけれども、それ自体はユニークでもなんでもない、程度の差こそあれ誰もが身につけているものであり、「他人との差異化」が意外と難しい。ファッションのような要素はともかく、笑顔のつくりかたや会話の機敏・身だしなみ・エチケットといったものを、差異化ゲームの立役者とすることは非常に困難だ。なぜなら、コミュ力に関して求められているのは、ユニークで独創性の高い身振りではなく、わかりやすく誰もが理解できる身振りだからだ。コミュ力の優劣の次元では、個性なんてものは必ずしも必要ない。いや、時には邪魔ですらある。
 
 確かにコミュ力は、さまざまな領域で差異化ゲームをやる際に有利な条件をもたらす。しかし上記のような事情もあって、それ単体では差異化ゲームやアイデンティティの確立に向いていないという印象を私は拭えずにいる。むしろ、テンプレ化した自分の身振りに嫌気がさしたり実存が脅かされたりするのではないか。
 
 それを間接的に証明しているようにみえるのが、“コミュ力に心血の大半を費やして、過剰適応の挙句にメンタルヘルスをこじらせてしまった人達”だ。どちらかといえば女性に多いこのタイプの人達は、コミュ力に心血を注ぎすぎて神経を参らせているだけでなく、「何の為にこんなことしてるんだろう?」「コミュ力以外は空っぽの私」といった実存的・アイデンティティ的な苦痛にしばしば苛まれている。ルックスも身のこなしも抜群の人物・異性に好かれようと思えばいつでも好かれることのできる人物が、それでもアイデンティティの空白に呻く姿というのはメンタルクリニックではそれほど珍しくない。もし、コミュ力さえ優勢ならアイデンティティや優越感が充当できるんだったら、彼らがあんな風には苦しむとは思えない。コミュ力だけでは、たぶん、ダメなのだ。
 
 
 
 
 【3】
 
 そういえば“コミュ力が、それ単体では他人との差別化に用いたりアイデンティティの拠り所にしたりすることが難しい”という構図は、貨幣のソレにも似ている。
 
 十分に流通している貨幣は、何にでも交換できる便利なものだ。けれども、貨幣それ単体でアイデンティティの拠り所にするのは難しい*2。一般的には、貨幣は「どれだけ持っているか」ではなく「どのように使ったか」を通してアイデンティティや差異化ゲームに貢献する。アイデンティティの確立や差異化ゲームといった視点からみれば、貨幣はあくまで手段・ツールであって、目的ではない。いつも問題になるのは、「貨幣を使って何を手に入れたのか」や「貨幣を使って何を実現したのか」のほうだ。
 
 コミュ力も同じで、「コミュ力を使って何を手に入れたのか」や「コミュ力を使って何を実現したのか」が重要なんであって、コミュ力のアドバンテージそのものが差異化ゲームやアイデンティティに貢献するわけではない。しかも、コミュ力は札束や金塊のように具現化することも預金通帳のように数値化することも出来ないので、そういう意味では貨幣以上にソレそのものを目的化しにくいと言える。コミュ力も“使ってナンボ”であり、コミュ力を介して手に入れるモノのほうが大事なのだ。
 
 
 
 【4】
 
 以上、コミュ力(コミュニケーションスキル/スペック)単品では差異化ゲームや優越感ゲームが困難な事情について紹介してみた。コミュ力は、差異化ゲームや優越感ゲームに直接貢献するのではなく、あくまで手段として、間接的にしか貢献しない。それどころか、コミュ力にばかり拘り過ぎればアイデンティティや実存上の問題に直面しかねないリスクすら含んでいる、というのが私の見方になる。 
 
 なので、コミュ力それそのものを差異化ゲーム・優越感ゲームの材料にするのは正直お勧めできない。差異化ゲームや優越感ゲームがやりたいなら、他所でやったほうがマシだ。コミュ力に魂を売りすぎた人間は、自分自身を金貨や銀貨に交換した人間にも似た、ある種の無間地獄におちてしまうんじゃないかと思う、おそらくは。
 
 

*1:あるいはリンク先のrepublic1963さんも、そういうことが言いたいのかもしれない

*2:なお、金額をアイデンティティの材料にしようとしすぎると、わりと簡単に金の亡者の暗黒面に堕ちやすい