シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

コミケの理念は、膨張にどこまで耐えられるのか問題

 
 【Column】コミケ76に見る参加者の低年齢化とその問題点:ボーダーライン
 
 リンク先の記事では、コミックマーケットの低年齢化問題について焦点をあてている。私自身のみている限りでも、最近、中学生ぐらいの子が増えていると思う。こうした問題は、野放しにしておけばいずれ火種に発展する可能性が高く、それはコミケの存続にもダイレクトに関わってくるだろう。
 
 
 それにしても、コミケ参加者も随分と変化したものだと思う。遠い昔は首都圏を中心とした“コアなおたくの祭典”だったのかもしれないが、いまや日本全国からオタクが、否、オタクというよりはむしろ消費者が集う祭典へと変貌しつつある。敢えて「消費者が集う祭典」と書いたのは、それがコミケの理念からズレまくった物言いではあっても、残念ながら事実としてはそうなりはじめているからだ。
 
 「コミケの理念と目的」については、こちらにまとめ記事があるので、もし良かったら読んでみて欲しい。このエントリ内では、id:ir9さんによる簡便なまとめだけを紹介してみよう。

・自由に表現可能とする場を提供する
・同じ趣味の人達との出会い・コミュニケーションの場を提供する
・全ての参加者は平等であり、即売会を構成する一人である。
・一般人へ理解されるように頑張ってみる。

http://d.hatena.ne.jp/ir9/20061002/1159742289

 このように、コミケの理念は「全員が参加者」「コミケは、自分達がつくりあげるコミュニケーションの場である」という精神を謳っており、実際、コミケ参加者各人に対して高い意識なりリテラシーなりを期待しやすい状況を保っていたと思う。少なくともかつては
 
 ところが現状は、そうではなくなりつつあるようにみえる。確かに立派な理念ではある。守られて欲しい。けれども、ここ最近の新しいコミケ参加者達に、このような意識なりリテラシーなりを期待することは、相当に難しいのではないか。そもそも、近年の急速に増加した参加者のうち、果たして何割ぐらいが「全員が参加者」「自分達がつくりあげるコミュニケーションの場」という自覚を持って参加しているだろうか?彼らの何%が、コミケカタログの理念と目的の項目に目を通したことがあるだろうか?
 
 あるいは違った角度から問い直してみてもいいかもしれない----価値観の雑多な、不特定多数の人達に開かれた巨大コミュニティを運営するにあたり、各人の意識やリテラシーを大前提として自由を維持していくような運営がどこまで可能なんだろうか?と。
 
 

コミケの理念は、どのようなコミュニティで運用可能か

 
 コミケの理念も、特定の条件下では十分な威力を発揮すると私は認識している。ああいう、参加者の自覚やリテラシーに期待するような手法は、
 
 ・参加者があまり多くなく、
 ・価値観や文化やリテラシーの水準が比較的粒ぞろいで、
 ・コミュニケーションに軸足を置いているコミュニティ
 
 であれば、かなり巧く機能するようにみえるし、そういう意味では、昔のコミケにはぴったりだったと思う。まして、晴海騒動やらオタクバッシングやらに示されるような「コミケの命運などいつでも消し飛びかねないという危機感」の漂う時代であれば、その空気の良し悪しはともかく、参加者達に対してリテラシーやデリカシーを期待しやすかったとも言える。常に風前の灯火であれば、「コミケが開催される=掛け替えのないこと=守っていかなければならない」という意識も抱きやすい。
 
 
 しかし、コミケの現状は、これとは正反対の方向に向かい続けている。つまり、
 
 
 ・参加者がどんどん増加し、
 ・価値観や文化やリテラシーの水準がバラバラな人達が流入してきて、
 ・コミュニケーションに軸足を置いていないコミュニティ
 
 というのが、コミケという名の箱舟が流されている方角であり、これはたぶん、路線変更できるシロモノではない。
 
 単なる確率論から言っても、参加者が増えてくれば「いわゆる極端に困った人」や「状況にタダ乗りしようとする人」が増えてくるのは必然である。門が広くなればなるほど、そのぶん火種も入ってくるということを、認識しないわけにはいかない。これらは、単なる啓蒙やマナーアップでどうにかできるほど甘いリスクではない。
 
 また、一昔前であれば「おたくの祭典」だとか「世間の迫害に耐えているオタクの、年に二回だけのハレの場」と思ってくれる人が多かったのかもしれないし、それを守ろうという当事者意識・オタク仲間意識が芽生える余地も大きかったかもしれない。だが、オタク界隈がライト化・カジュアル化しているなかで流入してきている人達に、そのような意識を期待するのは無理のようにみえる。近年のコミケが比較的順調に開催され続けていることも手伝って*1、危機感を共有するのも難しくなってきている。
 
 さらに、コミュニケーションの場から単なるショッピングの場へのシフト、言い換えるなら「参加者」から「お客様」への意識のシフトも、参加者としての意識やリテラシーを維持するには向いていない。それどころか、クレーマーさえ増えかねない。一般参加者の急激な増大、とりわけ、コミケを巨大なショッピングモールぐらいに思っている参加者の増大は、コミュニケーションの場としてのコミケの性質を希薄にせざるを得ない。一般参加者の人数が増え続ける限り、たぶん不可避の変化だ。
 
 こうした変化のなかで、参加者にリテラシーや自重を期待し、それを骨幹とした運営を続けていくことがいつまで可能だろうか?今年、来年、再来年は大丈夫かもしれない。では、五年後は?十年後は?
 
 

コミケの理念と、巨大化するコミケとの乖離。どうするの?

 
 このまま巨大化していくであろうコミケを、ひたすら理念どおりに運営し続けていった場合、維持できなくなるような事態を迎えるのは、たぶん時間の問題だろう。少なくとも私はそう推測せずにはいられない。それでも破滅の日が訪れるまで、運営サイドの人達は間違いなく最善を尽くすだろうし、多くのコミケ参加者も高いリテラシーをもって行動するだろう。しかし、徹夜組のような人達がのさばっている現状をみるにつけても、コミケの崇高な理念があるからといって、火種を遠ざけることは出来ないようにみえる。
  
 なら、末永くコミケを存続させるにあたって、理念とは必ずしも相容れない規制なり制御なりが必要になるとしたら?
 
 人数制限、年齢制限、チケット制 etc… 幾らでも方法はあるようにみえるが、ちょっとでも采配を間違えれば、コミケはコミケと呼べないシロモノに変質してしまいかねない。あの理念は、コミケをコミケたらしめている重大要素に違いなく、そう簡単に捨ててしまって良いものとは思えない。とはいえ、理念原理主義を貫く余裕があるわけでもない。やはり現実的には、【Column】コミケ参加者の低年齢化問題、その解決策:ボーダーラインで紹介しているような、ゾーニング的対応が穏当な妥協点のようにみえる。それだけで問題が解決するとは思えないが、何もしないよりは遙かにマシだろう。それで若干コミケの理念に傷がつくとしても、個人的には、滅んでしまうよりはマシじゃないかな、と思う。オタクもコミケも、もう昔のままではいられない。
 
 

*1:ちなみに誤解の無いよう補足しておくが、このような記述をしたからといって、必ずしも運営側が苦もなく開催している、と私は言いたいのではない。むしろ、運営側の凄まじい労苦に支えられる形で、どうにか順調に開催され続けている、というのが実情だ。問題は、そのような運営側の影の努力を省みることなく、文句を言いながらフリーライドするような参加者が今じゃ大勢いるのではないか、ということだ。