シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

文章(書き言葉)の啓蒙限界について考える機会があった

 
 文章(書き言葉)は、何をどこまで伝達し、何を解決し得るのか?
 
 科学技術や歴史的資料を後世に伝えるとか、最新のニュースを報じるとかいった場合に、文章が重要な役割を担っているのは言うまでも無い。あるいは、社会や集団といったマクロな対象についてのビジョンを描き出すにあたっても、文章が主要な位置を占めることだろう。
 
 しかし、ミクロの個人の、欲求や執着が深く関連している諸問題や、個人の生き方に対しては、文章(書き言葉)はどこまで力を持ち得るんだろうか?
 
 例えば、もし覚醒剤の効果や副作用をあまねく啓蒙さえすれば、http://d.hatena.ne.jp/ziprocker/20090807に書いてあるように、誰もが覚醒剤への依存を呈さずに“クレバーで限定的な”覚醒剤の使用法をマスターできるんだろうか?
 
 例えば、特定コンテンツを消費することで自己愛を充たしまくって現実逃避に終始している人達に、彼らの防衛機制と自己愛補償のメカニズムをテキストベースで説明さえすれば、“病理”は“解決”するのだろうか?
 
 どちらも、答えは、Noだろう。
 
 文章(書き言葉)による啓蒙で覚醒剤をクレバーに使いこなせるようになれる人間は、そんなに多くはあるまい。いくら適切な知識を教わったところで、あのドラッグが売薬として並んでいる限りは、「知識としてリスクとベネフィットを知っていても」深みに嵌る人間が多発するのは目に見えている。同じく、防衛機制の文章による直面化も、防衛の度合いがよっぽど軽い場合はともかく、一定以上の防衛の場合はほとんど効果を示さないか、むしろ防衛をいっそう強固にしてしまう。どちらの場合であれ、書き言葉は少なくともそれ単体では、ミクロの個人の、欲求や執着の関連した諸問題に対して十分な効果を持ち得ない。特に、欲求や執着が濃厚になりやすい領域であればあるほど、文章(書き言葉)による啓蒙は、期待されるような神通力を発揮しなくなる。
 
 



 
 【ミクロの個人に対する、文章(書き言葉)による啓蒙限界】について、日常、それほど意識することはない。なぜなら、僕の日常のコミュニケーションや仕事は、文章単体のやりとりにあまり依存していないからだ。僕の日常のコミュニケーションや仕事は、文章(書き言葉)よりも、非言語レベルのやりとりや、関係性という名のコンテキストに依存していることが多い。じかに対面して、文章以外のチャンネルも総動員する形で、関係性という名のコンテキストを味方につけながらコミュニケートすることによって、ようやく望むような相互効果が制御可能になる。*1
 
 だけど、文章による啓蒙、特に不特定多数に対する啓蒙は、こうした並立条件を欠いている。非言語レベルのやりとりとか、関係性という名のコンテキストとか、そういった追加装備は望むべくもない。個々の啓蒙対象が、その文章をどういう形で飲み込んでいるのかをモニタすることも、相手の理解力やメンタリティを忖度することできない状況下で、文章(書き言葉)だけが、読み手の眼前に浮遊することになる。もし、その文章の咀嚼プロセスや解釈の方向性がズレはじめていたとしても、その文章自体が目の前で意義を申し立てはじめることもなければ修正を入れてくれるわけでもない。そんな状況のなかで、その文章は、個人に呑みこまれていく。なんという、か細い糸だろう、文章(書き言葉)は。
 
 

 
 http://www.geocities.jp/wakusei2nd/
 
 日常はあまり考えない、この文章のか細さを思い出すきっかけになったのは、『http://www.geocities.jp/wakusei2nd/p6.html』だった。今回は“お笑い特集”ということだったので読むのを後回しにしていたが*2、さすがに中盤の対談は温度が高く、読んでいて相当にシナプスが発火したと思う。
 
 この、中盤パートのなかで「問題の解決」という言葉が出てきた*3わけだけど、それが喉に引っかかった小骨のように気になって、文章の啓蒙限界について考えるきっかけになった。えっ?問題の解決?問題が、文章(書き言葉)によって、解決するの?だとしたらどんな問題が解決の対象になるの?と。欲求や執着の強い分野では、書き言葉をあまり信用していない僕としては、そこのところが気になってならなかったわけだ。
 
 宇野さんが関与し続けているテーマである、「小さな共同体や島宇宙同士が摩擦を起こす状況」いわゆるバトルロワイヤル的状況と、その内側で吹き上がって承認欲求や自己愛を充当する人々」の有様を、書き言葉をもって記述するのは妥当だと思う。そういう意味では、批評畑や社会学畑の人達が紡ぎだす文章は、参考になる。上手くいけば、そうした記述が、空間や都市などのアーキテクチャの設計に際しての青写真に化ける可能性を秘めているかもしれない。鋭い切り口の議論が、統計的相関によって裏付けられる場合には、とりわけそうだろう。
 
 しかし、マクロレベルのアプローチやアーキテクチャの設計に最も役立つ文章(書き言葉)が、ミクロレベルの個人に浸透して意図したような伝達が可能かというとそうではない筈で、批評や社会学が生み出した文章のプロダクツが、ミクロレベルの個人の処方箋として役立つ可能性は、あまり高くないと考えざるを得ない。いや、何十人かに一人ぐらいは、うまいこと役立てるかもしれない。けれども、欲求や執着が絡むミクロな問題となると、知性が急に曇ったり、足もとが真っ暗になったりするのが人間なわけで、個々が文章を咀嚼する噛み口は、いかにも恣意的な(あるいは防衛的な)ものになりかねない。
 
 おそらく宇野さん達はこの辺りを意識しているのだろう、上記のようなミクロレベルの伝達に、文章を役立てようと夢想しているわけではないようには見えなかった。代わりに「1.社会的なアーキテクチャへの接近」「2.動員や権力をどう取り扱うのかの問題」について思索の矛先を向けているようにみえた。1.は、ミクロの個人への個別のアプローチとは無縁の世界だし、2.は、(それがたとえシミュラークルや記号を活用した身振りをとらざるを得ないとしても)、文章を売っている人達がマクロな集団に鱗粉をふりかけるのに有効な手段だとも思う。文章でもってミクロの個人を真面目に啓蒙するには向いていないとしても、マクロな集団の行動を確率的に変化させる鱗粉をふりかける点にかけては、文章(書き言葉)は長けている。鱗粉には、ライフハックのこともあれば、物語の形をとることもあるかもしれない。それらはミクロの個人を啓蒙することは無いけれども、自己愛への働きかけを通して個人の振る舞いに有形無形の影響を与え得る。後は、どのように世間をまなざし、どのような鱗粉を用意するのか、という話になる。それこそ、語り手の力量次第ということになるし、そこが一番難しいところなんだろうけれど。
 
 かつて僕は、その界隈といえば、現実検討を踏まえずに「白昼夢のような“べき論”」を好む人が多いんじゃないかと思って食わず嫌いしていたけれど、文章(書き言葉)に出来ること出来ないことをキッチリ区別しながら、現実検討から逸脱せずに考えていく意識のある人の文章なら、面白く読めそうだ。
 
 
 

*1:制御可能になる、とは偉そうな。その実態は、波間を漂う小舟の舵を操るような、頼りない代物ではあるけれども

*2:幸い、“お笑い特集”は興味をそそる内容だった

*3:例えばP191の大澤さんの言葉とか