シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

End of Evangelionの惣流アスカと「赤い海の21世紀」について

 
 両価的な他者性が描き出す可能性――エヴァとエロゲと赤い浜辺と - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
 
 上記リンク先を読んで、End of Evangerlion*1の惣流アスカのことを思い出した。リンク先の人は「End of Evangelionのアスカは、シンジにとって都合の良い相手」という表現をしていて、美少女恋愛ゲームのキャラクター達と同じ役割を与えられていると解釈しているようだが、強い違和感を禁じ得ない。
 
 この機会に、1997年のEnd of Evangelionで描かれた惣流アスカと、「萌え」に供されるような美少女キャラクター達との対照的な姿を再確認したうえで、今後のヱヴァ劇場版シリーズが描き出すであろう「他者とのコミュニケーション」について若干の考察を付け加えてみようと思う。
 
 

「キャラ萌え」に突入した時代と、End of Evangelionという作品

 
 新世紀エヴァンゲリオンは、ちょうどオタク界隈で「萌え」が台頭してきた1990年代中頃にヒットした作品だ。当時は『サクラ大戦』『To Heart』『センチメンタルグラフィティ』などに代表されるような美少女キャラクターの製作技法・消費様式が急速に普及した時期であり、齟齬や違和感を含んだ登場人物の精緻な描写ではなく、キャラクターという“萌え属性の束”を骨組みにした脳内補完や二次創作を嗜好するタイプの作品が台頭しつつあった時期である。(ちなみにこの前後、オタク界隈の外側では、制服少女やブルセラショップに群がる寂しいオジサン達が社会問題になっていたことも付け加えておこう)
 
 TV版エヴァに登場した登場人物も例外ではなく、“萌え属性の束”として、さまざまな脳内補完や二次創作に供され、特に綾波レイと惣流アスカは、現在まで連綿と受け継がれる“青髪無口系”と“ツンデレ系”の祖先に近い位置を占めるに至った。
 
 ところが、そうした流れに異議を突きつけたのが End of Evangelion だった*2。綾波レイや惣流アスカを骨組みとして・あるいはエヴァンゲリオンという作品それ自体を骨組みとして、都合の良い願望と想像力で肉付けした脳内補完や二次創作に「萌え」ていた当時のエヴァ-ファンに対し、庵野監督は、ご都合主義的願望にまとめあげることが困難な、違和感や摩擦を含んだ姿の綾波レイや惣流アスカを映画館のスクリーンにでかでかと提示してみせたのである。
 
 綾波レイは「私はあなたの人形じゃない。わたしは、あなたじゃないもの」と碇ゲンドウに言い放ち、 惣流アスカは「だけど、あなたとだけは絶対にイヤ」と碇シンジに言い放った。
 
 すでに「萌えキャラの筆頭格」として消費されていたエヴァの二大ヒロインが、揃いも揃って、“願望のハリボテ人形”として都合よく消費したがる男に対して拒否を示したのである*3、「わたしはあなたの抱き枕じゃない」と。そして End of Evangelion という映画そのものも、ご都合主義な二次創作を振り切るような展開で最後まで突っ走った。関連グッズの売り上げなどが凄いことになっていたにも関わらず、整合性やファンサービスよりもメッセージを優先させたショッキングな形で“20世紀のエヴァンゲリオン”は終劇した。
 
 しかし、このような End of Evangelion の異議申し立ては、殆どの視聴者にスルーされるか拒否されたようだ。その後のオタク界隈は何事も無かったかのように、「ツンデレ」「幼女」「青髪無口系」といった「萌え」の時代へと傾いていく。
 
 

End of Evangelion の惣流アスカの役どころについて

 
 そうした流れを踏まえて、End of Evangelion の惣流アスカが担っていた役どころを振り返ってみよう。
 
 End of Evangelion は、病室に横たわる惣流アスカが碇シンジの自慰のネタにされるシーンで始まる。このときの物言わぬアスカが、シンジにとって都合の良い人形としての最後のシーンだった。以後のアスカは「私はあんたの人形じゃない」という自己主張を突きつけ、寂しさを紛らわせる人形として消費されることを拒否していく。対してシンジは「思い通りにならない人形は死ね」といわんばかりにアスカの首を締め上げたが、最後の最後にシンジの傍にいたのはアスカだった----
 
 この一連の流れを回想するにつけても、End of Evangelion のアスカは、“シンジの願望通りには振舞わない他人”として徹底的に描かれている。最後のシーンで頬を撫でたのも、シンジが望んだからそうしたようにはみえず、むしろシンジの想像や予測を逸脱した行動だったようにみえる。「萌え」キャラにありがちな手前勝手な脳内補完をいっさい許さない、予測困難な他人としてのアスカ----End of Evangelion のなかの彼女は、二次創作や脳内補完に便利なツンデレキャラではなく、そのような手前勝手な消費を弾劾する、他人そのものだったといえる。
 
 しかし本来、他人と対峙するということ・他人との相違を踏まえながら暮らしていくということは、そういう痛みや怖さを含んでいるものだし、一緒に生きていく喜びや瞬間を共有することの掛け替えの無さといったものも、他人の痛みや怖さを引き受けた彼岸にある。そのためのスタートラインにどうにか辿り着いたところであの映画は終わったのだ、と私は理解している。
 
 

「シンジとアスカは、赤い海辺に置き去りのまま。」

 
 では、End of Evangelion 以後のオタク界隈、そして世の中はどうなっていったか。
 
 1990年代後半以後、「萌え」はいよいよ全盛期を迎え、ゲームからライトノベルへと軸足を移しつつも、美少女キャラクターが大量生産-大量消費される状況が続いている。最近の『初音ミク』『東方』『アイマス』などを使った二次創作群も、基本的には「萌え」と同じ構造を踏襲しているとみて差し支えない;つまり、キャラクターを骨組みとして個々人が想像力と願望を膨らませて楽しむ、そういうタイプのエンターテイメントの延長線上にある。齟齬や違和感を含んだ登場人物ではなく、個々人の願望と想像力をイメージとしてまとめあげる骨組みとして“使いやすい”キャラクターが選ばれ続け、消費され続けてきたのが、今日までのオタク界隈の趨勢だろう。
 
 そればかりか、実生活の世界でも“キャラ”を介在物としたコミュニケーションモドキが流行するような現状をみるにつけても、齟齬や痛みをお互いに引き受けながら付き合っていくようなコミュニケーションは、コンテンツレベルでも実生活レベルでも一層衰退しているとみるべきだろう。お互いにキャラを立てあって、キャラばかり見つめあって、そうやって他人との間の齟齬や魔擦に触れる機会を最小化しながら、手前勝手な願望の繭のなかに自閉していく処世術は、もはやオタクだけの特権ではない。
 
 これらを振り返る限り、1997年の End of Evangelion が指摘した問題点は、現在に至るまでなにも変化していないか、むしろひどくなっているようにみえる。「痛みや齟齬を引き受けながら、それでも他人と生きていくしかない」というEnd of Evangelion のメッセージは、結局ほとんどの人に省みられることなく、時代の空気は、痛みや齟齬を最小化するための処世術とインフラストラクチャーに引きこもり続けた。言い換えるなら、「LCLの海から抜け出たシンジとアスカの後に続いた人間は、殆どいなかった」のである。
 
 そう考えるにつけても、庵野監督達が21世紀にもう一度エヴァンゲリオンを立ち上げたのは、単なる営利上の話だけでなく、“他人とのコミュニケーション”というテーマを考えるにつけても必然だったというほかない。End of Evangelion で決心したシンジとアスカは、今も、人気の絶えた赤い海辺に取り残されている。海の色は青さを取り戻すこともなく、世間は痛みと齟齬を最小化したLCLに埋没した人達で充ち満ちている。それどころか、齟齬や痛みを回避しながら願望と想像力を愉しむ為のインフラが、ネットゲーム・ケータイ小説・ニコニコ動画、といった具合にますます整備されている。ゼーレの老人達が夢見た“誰もが繋がりながらも痛みのない世界”が、ニコニコ動画のようなアーキテクチャで21世紀に実現してしまっているというのは、なんとも皮肉な話である。
 
 
 

新劇場版ヱヴァは“青い海”を取り戻せるか

 
 こういった時代のなかで、新劇場版ヱヴァは、“他者とのコミュニケーション”という主題にもう一度取り組むという。今回の登場人物達は、ハリボテ人形に成り下がらない意志を早くもみなぎらせているようだ。彼らが齟齬や摩擦を含んだ関係性をどうみせてくれるのか、とても愉しみである。
 
 もちろん、新劇場版ヱヴァがどんなに卓越した作品に仕上がったとしても、キャラを立ててキャラに萌えて、そうやって痛みを誤魔化しあいながら生きていく状況がすぐに変わるとは思えない。しかし、作中に登場した青い海を取り戻す為のプラントのごとく、生ぬるいLCLのような時代に対する第一歩として記憶に残るような作品になって欲しいと思うし、そのような意図と可能性を秘めていると信じてみたい。
 
 End of Evangelion で打ち捨てられたあのテーマを、今度こそ。
 
 
 
 
 [関連]:ハルヒを持ち上げてエヴァのトラウマを忘れたがるオタク - シロクマの屑籠
 [関連]:http://shirokumaice.sakura.ne.jp/moe_and_self.htm
 
 

*1:略称EoE、1997年のエヴァンゲリオン映画版

*2:ちなみに、『機動戦士Vガンダム』のカテジナ・ルースも、類似した異議を突きつけてはいたが、カテジナ自身があまり人気を博さなかったこと、そして何よりあまりにも時代を先取りしすぎたことのためにスルーされてしまった。

*3:目の前の異性を自分の願望を叶える為のハリボテ人形として消費する、寂しさを紛らわせる為のオナペットとして消費する、という点では、碇シンジは父親に実によく似ている。そして、そのような姿勢をとることで異性との対峙を回避する、同時代以降の男達の姿ともよく似ている。