シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

“物欲地獄”は世代固有の問題か否か について

 
 

豊かさとは何か (岩波新書)

豊かさとは何か (岩波新書)

 
 
 日本家族の崩壊モデル。ザ・ノンフィクション「漂流家族」 - 深町秋生のベテラン日記
 
 上記リンク先の「漂流家族」のような物欲のギラつきっぷりを目の当たりにすると、一体なんなんだろうと戸惑ってしまう。この手の、長大なローンを払ってまでラグジュアリーカー(やモドキ)を買い求め、エコポイント対象商品に疑問すら抱かずに財布を開くあのメンタリティは、ほとんど不可解にすら思える。団塊ジュニア世代より下の世代、特に、いわゆるロスジェネより若い世代には、そう映るんじゃないだろうか。
 
 

物欲を充たせば幸せになれた時代

 
 
 団塊世代あたりの話を聞いている限り、焼け野原から再出発した日本人にとって、戦後復興〜高度成長期という時代は、モノを手に入れること・物欲を充たすことが幸福感に直結しやすい時代だったらしい。食べ物にも困るような状況から始まって、所得を増やし、復興しつつある街に暮らし、電気洗濯機やテレビが普及していくなかで、少しずつ物質的な豊かさが高まっていくというのは、そりゃ幸福感が強くなりやすかろうとは思う。特別な能力や幸運に恵まれない凡人でさえも、かなり高い確率で“だんだん充実していく感”を体験できる時代の流れだった。*1
 
 個々の家庭だけでなく、国全体がモノを手に入れ豊かになっていった時代でもある。自宅に揃えられた“三種の神器”に限らず、高速道路や新幹線のような公の事業までもが、物欲を充たし消費することの素晴らしさを象徴してやまなかった。広がっていく高速道路網や、青函トンネルや新幹線といった大事業も、単に国内のインフラストラクチャー向上という使命を担っていただけでなく、「物欲を充たせば充たすほど、みんな幸せになれる」という神話を強化するニーズをも充たしていた点は、見逃されるべきではない。21世紀になっても根強く残っている、大赤字ハコモノ事業などをみるにつけても、「モノがあれば幸せ」神話は年寄り世代を中心にまだまだ信奉されているのかもしれない*2
 
 そう思うと、バブルという時代は「物欲を充たしたりモノを消費すれば幸せになれる」という神話が神話として成立した最後の時代だったんだな、という気がする。エコノミックアニマルと評されるまでになった日本人は、とうとう世界中からモノを買い集めて自己愛と自尊心を充たしはじめていたけれども、幾らモノを集めても特別には幸せになれなかったし、子どもにファミコンやビデオデッキを買い与えたからといって、子どもがハッピーになってくれるわけでもなかった。こうした限界が見え隠れしている状況に対し、『豊かさとは何か(1989)』の暉峻淑子さんのように早くから警鐘を鳴らした人もいたけれども、大抵の人は「モノさえあれば幸せになれる」神話の忠実な信者として振舞っていたように記憶している。
 
 バブルがはじけるまでは。
 
 

「物欲が充たせれば幸せ」神話vs「コミュニケーションで幸せ」神話

 
 で、バブルがはじけて、世代も巡って。
 
 団塊ジュニア以降の世代が社会に出た時には、「物欲が充たせれば幸せ」というのはすっかり時代遅れになっていた。そもそもモノなら最初から与えられている。テレビもエアコンも電子レンジも普及した環境で育った世代・親にねだればファミコンで遊ぶことができた世代にとって、電化製品は単なる生活用品でしかなく、特別な輝きや象徴性を引き受けてくれるガジェットとはなりえなかった。そのうえ、バブル世代の贅沢の真似事を本気でやろうにも、不況と就職難のせいで身動きが取れない。
 
 代わりに注目を集め始めたのは「人間関係やコミュニケーションがあれば幸せ」という神話だ。モノは溢れているけれどもコミュニケーションが無い・心が貧しい、だったらそっちを豊かにしようじゃないか、という御馴染のやつである。団塊ジュニア以降の世代にとって、モノそのものは、はじめから与えられた単なる生活用品でしかない*3けれども、湿潤な人間関係やコミュニケーションの基礎的な素養は、塾通いとスケジュール管理に追いまくられた世代にはちょっとした贅沢品になりはじめてきていたわけで、「豊かな人間関係やコミュニケーション能力があれば幸せになれる」という、新しい神話が支持される素地は十分にあっただろう。
 
 欲しいのは、接触と承認。怖いのは拒絶。
 モノなんて最初からあるから“どうでもいい。”
 
 そういう意味では、あの『新世紀エヴァンゲリオン』が1995年にヒットしたのも時宜に適ったタイミングだったといえそうだし、コミュニケーションの為のデバイス----ポケベル、携帯電話、SNS、アバター----がビジネスとして台頭してきたのも、相応の必然性を伴っていたといえそうだ。そして、「モノではなく、コミュニケーションが無ければ幸せになれない」という神話は、現在でもかなり広い範囲に信仰され続けている。
 
 

「漂流家族」みたいな物欲地獄は、世代が変われば減っていくのか?

 
 こうやってみていくと、深町さんが紹介した「漂流家族」のような家族は、まさに古い時代の残滓というか、「モノさえあれば幸せ」神話の生き残りという風にみえる。新しい世代に軽蔑されながらも淘汰されていくんじゃないのか、と予想したくもなる。
 
 ところが実際には、こういう人達が減っているかというと、あんまり減っていないようにみえる。それが怖い。
 
 「漂流家族」ほど悲惨な事例はさすがに稀だが、国道沿いに暮らしている限り、この手の悲喜劇には常に事欠かない。縁を結ぶだの良好なコミュニケーションだの、そんなことを勘案する意志の片鱗すらみせない、物欲だけに忠実すぎる人達の姿は、娑婆世界から絶えることが無い。もしかしたら増えているかもしれない…少なくとも、減っているわけではないようにみえる。この手の人物が十代〜二十代にも珍しくないところをみると、案外、もっと普遍的な存在なのかもしれない。
 
 だとしたら、そういった人達に何がどう“救い”になるのか?
 そもそもこの場合、何をもって“救い”と呼びえるのか?
 その辺り、よく分からない。
 
 

*1:勿論、個々のエピソードとしては、破滅する人間がいなかったわけではないだろうし、そのような人にとっての高度成長というのは異なった視え方にはなるだろうけれど、時代の趨勢とはなりえないものである。また、この視点は、モノが無かった時代特有の苦しみを軽視したアングルになりやすいという問題もあることはつけ加えておく

*2:いや、勿論、利権とか色々あるにせよ

*3:デジタルガジェットのように、差異化ゲーム・優越感ゲームのためにモノが買い求められる場合も、それはデジタルガジェットそのものが欲しいというよりも、ライバル達に差をつけたいという、人間関係にまつわる願望が先行している、と捉える。モノそのものを欲しがるマニアみたいな人種は1990年代までの人間だ。