シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

自己評価の“格差社会”

 
 
 『格差社会』という言葉が流行ってかなり経ったが、さりとて『格差』が解消されたかというとそうでもなく、さまざまな分野で個人間の格差は拡大し続けているようにみえる。勿論、ここでいう『格差』は経済格差だけではなく、教育格差や情報格差なども含めての『格差』である。
 
 そんななかで、人格形成にも大きな影響を与えているであろう「自己評価」に関しても、子ども時代からの積み重ねとして、以前よりもバラツキの大きな格差が生まれているんじゃないかと思い、この文章を書き残してみることにした。
 
 日本の子どもの自己評価は、他の多くの国と比較して相当に低いという。*1確かに、平均をとればそうなんだろうなという実感はある。一方で、自己評価の高い子どもは、いるところにはちゃんといる。あくまで私の観測範囲に関する限り、子どもの「自己評価」が低くなりすぎないように相当な注意が払われている家と、全く注意の払われぬままに、自己評価が低くなるに任せて育てられている家ではギャップが相当に大きいようにみえる。そして子どもの振る舞いや自己評価の蓄積にも、それが反映されているようにもみえる。
 
 
 

「自己評価」の三つの階層

 
 すごく大雑把に分類すると、個々人の自己評価は以下の三つの階層にカテゴライズできると思う。ここでいう三つの階層とは、
 

 (1)  自己評価がもともと蓄積している安定層
 (2)-1 強引に自己評価を引き上げてないと安心できない、不安定層
 (2)-2 自己評価の蓄積が乏しく、しかも強引に自己評価を引き上げきれない不安定層

 だ。
 
 (1)「自己評価」がもともと蓄積している安定層
 
 小さい頃から自己評価がそれなりに高い状態で推移している層。
 ある意味、“真のリア充”
 
 幼少期から等身大の自分自身を肯定してもらいながら育った人・おおむね両親の祝福のもとで育ってきた人などは、そのお陰か“自己評価の最低値”が高めの人が多い。このため彼ら/彼女らは頻繁にor/and派手に褒めて貰わなくとも、自己評価をそこそこのレベルに保ちやすい。自己評価が安定しているお陰でトライアンドエラーにもチャレンジしやすく、ひとつの失敗や挫折がネガティブな自己評価に直結するという事態も少ない。
 
 こうした安定した自己評価の人達は、褒めてもらう為にあくせくしなくても割と平気なので、ネットなどでは目立ちにくく、しかもパーソナリティも安定していることもあって(色々な意味で)可視化されにくい。平凡ではあっても良心的で包容力のある父親や母親をやっていたりする。
 
 
 (2)-1「自己評価」の蓄積が乏しいがために、強引に自己評価を引き上げまくっている不安定層
 
 本来は低い自己評価を、絶えず褒めて貰って埋め合わせしていないと安心できない層。
 いわば“偽りのリア充”
 
 派手なパフォーマンスや業績、エグゼクティブな評価を絶え間なくかき集めることで、強引に自己評価を引き上げまくって心の均衡をどうにか保っている人達。このタイプは、一見すると自己評価が非常に高そうにみえる。だがよく観察すると、自己評価の“最低値”がかなり低いことが見えてくる。強迫的に肯定的評価をかき集めずにはいられないのも、僅かにプライドを傷つけられただけでも憤怒するのも、自己評価の“最低値”が低ければこそで、外部評価によって自己評価を高められるシチュエーションが維持できなくなる事態を過剰に恐れる
 
 彼らの自己評価は、穴の空いたバケツに喩えられる。絶えず充たし続けていなければ、たちまち空っぽになってしまう、というわけだ。1.の“真のリア充”の場合、バケツに穴が殆ど開いていない&底のほうに小さい頃からの蓄積がしっかりこびりついているので、そんなに頻繁に外部から自己評価を補充しなくても大丈夫だが、“偽りのリア充”はそうはいかない。“偽りのリア充”が自己評価を高い状態を維持しようと思ったら、絶えず褒めてもらったりスポットライトの下で活躍したりして、放っておけば下がっていく自己評価の水位を絶えず引き上げざるを得ないのである。*2
 
 この“偽りのリア充”に該当する達は、幼少期のうちから等身大の自分自身をあまり肯定してもらえず、むしろ親の顔色を伺いながら育たざるを得なかったという人が多い。円満な両親の祝福のなかで育ってきたという記憶に恵まれていない人もやはり多い。この点で、1.の“真のリア充”とは育ちが随分異なっている。
 
 彼らの自己評価は表面的には決して低くはないが、それは外部からの肯定的評価に強く依存しているものだし、維持できなくなってしまえば自己評価は短期間で地に落ちやすい。それがイヤなら、外部からの肯定的評価を死に物狂いで集め続けるしかない。いつかバケツの穴が塞がるか、終わりの日が訪れるまで。
 
 
 (2)-2 自己評価の蓄積が乏しく、しかも強引に自己評価を引き上げきれない不安定層
 
 “非モテ”“非コミュ”という言葉が当てはまりそうな人達。
 
 “偽りのリア充”と同じような、根本的な自己評価の低さを抱えた人達。外部からの肯定的評価をかき集めきれないという点が“偽りのリア充”とは違っており、そのために自分自身のことを常に卑下している。しばしば彼らは、自分自身が外部からの評価に飢えていることにあまり気付いていない*3
 
 しかし“偽りのリア充”と“非モテ非コミュ”は水と油というよりはコインの裏表のような存在であり、状況や局面次第で入れ替わり得る。よくあるパターンは、“偽りのリア充”が外部からの自己評価が得られなくなってこちらに落ちてくるパターンと、自分が有頂天になれる場面やジャンルでだけ吹き上がって“偽りのリア充”になり、そうでない場面では“非モテ非コミュ的に振舞う”スイッチングを半ば意識的に行うパターンだ。
 
 “偽りのリア充”と“非モテ非コミュ”は、共通のメンタリティに根ざした二通りの適応スタイルと捉えるのが適切だろう。どちらも自己評価をかき集めることに飢えてはいるが、正反対の適応スタイルを構築している。“偽りのリア充”と“非モテ非コミュ”の間で常に摩擦が絶えないのも、おそらくはこのためだろう(同族嫌悪)。
 
 

個別の核家族に委ねられた、自己評価を涵養する生育環境

 
 このように、自己評価の三つの階層というよりは、 [根本的な自己評価が高い][根本的な自己評価が低い] をニ極とした自己評価のグラデーションと表現したほうが適切かもしれない。“偽りのリア充”と“非モテ非コミュ”は、ときに対照的な問題として取り扱われるが、低い自己評価に由来しているという根っこは同じで、しかも両者は容易にスイッチしやすい*4そしてこのコインの裏表こそが、自己評価が低めの人達の適応スタイルの雛型だろう、と私は考えている。
 
 ただし冒頭にも書いたように、最近の世代がみんな「自己評価の低い青少年」かというとそうではなく、“真のリア充”とでもいうべき、自己評価が比較的高め安定している青少年も確かに存在しているし、両親からの祝福や等身大の自己肯定といった養分に恵まれながら育っている幼児や小学生というのも、いるところにはそれなりにいる。世代平均としての自己評価が低めなご時世にも関わらず、相当に配慮された家庭環境のもとで自己評価を蓄積している子どもはまちがいなく一定数存在しており、自己評価が低い方向へと流れていく子ども達とは好対照を呈している。むろん、自己評価の高低差は昔からあっただろうし、自己評価の悲惨な人というのもいただろう。けれど、低い自己評価にまっしぐらな人達と、このご時世でも分厚い自己評価を涵養し、“リア充まっしぐら”な人達とを両方みていると、私などは凄まじいギャップにびびってしまう。
 
 こうなってしまったのは何故か?要因は多岐にわたるだろうけれど、地域社会やコミュニティの消失と、家庭の核家族化*5は、この場合も無視できないファクターだろうと思う。これらの変化によって、子育ての帰趨は個々の両親に委ねられる部分が大きくなり、両親からの祝福や等身大の自己肯定といった養分を、他の親族や地域社会の成員によって代償される可能性は少なくなってしまった。地域社会やコミュニティが、子どもの自己評価を涵養する際のバッファとして機能することは、後の時代になればなるほど、都市空間化していればいるほど望み薄である。
 
 地域社会の希薄化と核家族の徹底化は、個々の家庭の生育環境のギャップを拡大しがちだ。そしてギャップは“生育環境に由来した格差”となって子ども世代に蓄積していく。個別の核家族ごとの蓄積格差は、これまで主として教育分野の問題として議論されていたけれど、それだけでなく、自己評価の涵養のような心理領域でも無視できないんじゃないだろうか。そして、個々の子どもの自己評価の“格差”となって、現代の世代に現れ始めているんじゃないだろうか。
 
 離婚率や児童虐待の増大をみるにつけても、現状、等身大の子どもを肯定できるような余裕のある両親が増えているとは思えないし、子どもを祝福しつつ円満な家庭を築いている両親が増えているとも考えにくい。“偽りのリア充”“非モテ非コミュ”的な自己評価の低いメンタリティは今後も増え続け、対照的な“真のリア充”との格差が拡大しやすい状況は、当分は続きそうだ。
 
 
 [参照資料A]:申し訳ありません。
 [参照資料B]:•]‰¿‚ðl‚¦‚é
 [参照資料C]:平成18年度児童相談所における児童虐待相談対応件数等|厚生労働省
 [少し古い資料D]:http://www5.cao.go.jp/j-j/wp-pl/wp-pl01/html/13102600.html 
  
 

*1:→文末のリンクA、Bを参照のこと

*2:この不断の努力は、もちろんバケツに空いた穴の大きさが大きければ大きいほど強迫的なものにならざるを得ない。ときに、この不断の努力が意想外の才能を開花させることはあるが、そのような人でさえも、高い自己評価を維持するべく、死ぬまで自転車操業を続けざるを得ない場合もある。

*3:尤も、それは“偽りのリア充”の場合でも、飢えている自分自身に気付かないということはままみられるが

*4:そして付け加えて言うなら、同族嫌悪や共依存を呈しやすくもある

*5:それも、知人縁者がいない地域における核家族。核家族化そのものは戦前から進行していたが、知人縁者がいない地域における核家族化に関しては、戦後の高度経済成長以降に進行している点に注意。参考:少子化社会白書〈平成18年版〉新しい少子化対策の推進 内閣府