シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

低血糖を呈している人の経験談を、そのまま鵜呑みにしていいの?

 
 
 20年来のつらさがほぼ消えたことについて
 
 今の日本人は、過去にはあり得なかったほど多量の炭水化物に囲まれて生活している。それが糖代謝に大きな負荷をかけているという理解は、おそらく正しいのだろう。だから殆どの現代人にとって、短期間に大量の炭水化物を摂取しすぎないように食事を工夫するのは悪いことではないとも思う。
 
 否定的なタイトルをつけたけど、実は私自身の食生活も、リンク先で書かれている食事の内容にかなり近い*1。まあ、マクロビオティクスとかいう言葉とは縁が無く、炭水化物の摂取源としてパスタを重視している点が違うけれど。
 
 しかし、リンク先の記事をライフハックとして鵜呑みにする前に、ちょっと立ち止まって考えて貰いたい部分があるので、三つほど突っ込みを入れてみようと思う。
 
 

1.かなりの低血糖を呈する人の体験談だという点

 
 身体のホメオスタシスを保つうえで血糖値はきわめて重要なファクターなので、正常な人体は、血糖値をかなり狭い幅で制御している。これは(糖尿病で有名な)高血糖だけではなく、低血糖についても言えることで、普通、人体の血糖値は80を下回ることはない。せいぜい70ぐらいまでだろう。糖負荷試験後5時間の値とはいえ、血糖値が50台まで下がってしまうということは、身体のホメオスタシスを保つうえで重大な脅威であり、かなり脆弱な糖代謝だと言わざるを得ない
 
 かなり脆弱な糖代謝を持った人であればこそ、この食生活でここまで劇的な改善をみたんではないかと推定する。血糖値が正常範囲から逸脱しないような、糖代謝がそれほど脆弱でない人が、同じことをやって同じ結果が得られるとはちょっと考えにくい。
 
 

2.炭水化物を避けすぎるリスクが書いてない

 
 炭水化物を避けすぎることのリスクについて、このエントリはまともに触れていない。そもそもブドウ糖がなければ脳味噌はまともに回転しないし、タンパク質や脂質は、幾ら遠回りしてもブドウ糖そのものを提供してくれるわけではない*2。また、炭水化物の少なすぎる生活を続れば血液が酸性に傾きやすくなり、別種の大きな負荷が身体にかかることになる。
 
 くわえて、炭水化物の少なすぎる食生活は肝臓や腎臓への負担も大きく、肝機能や腎機能の弱っている人にとって重大なリスクとなり得る。例えば、肝臓に負荷のかかる薬を飲んでいる人や、腎臓系が弱い人は、この食生活を“ライフハック”として採用すべきではないと思う。
 
 実際、この人の低炭水化物な食生活が上手く言っている理由は、炭水化物を完全に忌避しているからというより、むしろ炭水化物がダラダラと少しずつ摂取できるような食生活を形成しているからのようにみえる。炭水化物を摂取しなさすぎるのは明らかに危険だ。こうした低炭水化物を勧める記事では、リスクもきちんと併記して欲しいと思う。
 
 

3.多くの精神疾患を、低血糖に由来すると考えるのは不適切です

 
 リンク先の記事に限らず、「低血糖の治療で統合失調症、鬱病、パニック障害が治る」という文章をネット上で見かけることがあるが、これは現代の国際疾患分類からすれば非常に奇妙な記述だ。もし、血糖コントロールの不良が直接原因となって種々の精神症状を生じているとしたら、以下のような診断になる筈である。
 

ICD-10:F06.脳損傷、脳機能不全および身体疾患による他の精神障害
Other Mental Disorder Due To Brain Damage and Dysfunction and Physical Disease

 あるいはアメリカ精神医学会のDSM-IVなら、

DSM-IV:293.xx 一般身体疾患による精神疾患
Mental Disorder Due to a General Medical Condition

 となるだろう。
 
 これらの診断基準のなかには、「病歴、身体診察、臨床検査所見からこの障害が一般身体疾患の直接的な生理学的結果であるという証拠がある」という項目が含まれている。五時間糖負荷検査で引っかかり、血糖コントロール不良が精神症状の直接原因であるというのなら、まさにこのカテゴリに該当するだろう。
 
 
 逆に、例えばパニック障害の診断基準には以下のような項目が含まれている。

C.パニック発作は、物質*3または身体疾患*4の直接的な生理学的作用によるものではない。
(DSM-IVから抜粋)

 なので、どういう精神症状を呈していようが、身体疾患が直接原因になっている事例を、統合失調症だのパニック障害だのと診断することはあり得ない。少なくとも、国際的な診断基準を知っている限りは、そんな診断を下すことはない。
 
 だから、

低血糖症を治療することでうつ病だけでなく、統合失調症も良くなるらしいとのこと。

 という増田の記述は誤っている。血糖コントロール不良が直接原因となっている精神科的症候は、「鬱病」「統合失調症」と診断されることはない。ましてや“本物の”鬱病や統合失調症が、血糖コントロールによって直接的に治せるという信頼に値する治療エビデンスを、少なくとも私は知らない。
 
 正直のところ、「血糖値を治せば統合失調症やパニック障害が治る」などと言っている医者がいるとしたら、彼はどのような診断基準に基づいて診断を下しているのだろうか?ICD-10やDSM-IVのような国際分類だけでなく、もっと古い診断体系と照らし合わせても、いまいちピンと来ない。ちなみに、“栄養療法で精神疾患は治る”と主張しているDr.をネット上で検索してみると、精神疾患の診断学的研鑽を積んできた形跡が全く記述されていないDr.をみかけることがある。そんな人達による“精神疾患に対するユニークな治療法”を引用した記事に対して、[これはすごい][ライフハック][お役立ち]などとタグをつけて有り難がるはてなブックマーカーの人達は、かなり無邪気な人種だなと思う。
 
 

食事内容は結構よさげだけど、知識のバックボーンの偏りが…

 
 以上のように、くだんの記事は糖代謝や精神疾患についての知識的バックボーンがかなり偏っている部分を含んでおり、ライフハックとして万人に勧めることはできないと思う。膵臓よりも肝臓や腎臓が弱い人には全く不向きだし、低血糖の補正だけで(本物の)精神疾患を治そうとした挙げ句、正規の薬物療法の開始が遅れてしまう人が出てきそうな内容にも読める。食生活の内容そのものは膵臓*5の弱い人には結構よさげにみえるだけに、知識的背景・理論的背景に偏りがあるのは残念なことだ。
 
 糖代謝が唯一のアキレス腱という人にとって、あの記事に描かれた食事の内容はかなり理想に近いと思うし、現代人が糖尿病になりやすい事を考えるにつけても、炭水化物の過剰摂取に注意を払ったほうが良いとも思う。けれども、糖代謝が正常な人とそうではない人では、低炭水化物な食事法の意味合いが全然違ってくるだろうし、あれをライフハックとして誰もが鵜呑みにして良いかといったら、たぶんNoだろう。
 
 
 

病気はなぜ、あるのか―進化医学による新しい理解

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*1:尤も、私も糖代謝がちょっとばかり弱いので、体が自然に求めて増田に似たような食生活へと収斂していったような気がする

*2:ちょっと補足:遠回りすれば一応ブドウ糖も提供できます。ただしこの場合、ケトン体の産生とそれに伴うアシドーシスの問題がどうなるのかは気になるところ。

*3:例:乱用薬物、投薬

*4:例:甲状腺機能亢進症

*5:というよりはランゲルハンス島