シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

人生行路を、切符や地図だけ見つめて旅する人達

 
 人生は、しばしば旅に喩えられる。
 
 人生行路の行方は、誰も知らない。“ある程度まで見当がつく”ことはあるにせよ、どんな風景、どんな出会いが待っているのかをすべて予測することは困難だ。
 
 にも関わらず、この人生という名の長い旅を、「俺の行き先はここだから」と割り切り、手元の切符や地図だけを見つめて旅する人達がいる。自分が手にしている切符を凝視し続けたり、手元の地図を広げて眺め続けることで、あたかも自分の人生の旅が切符と地図だけで完結させてしまっているような、そういう人生行路に終始している人達がいる。そして、切符や地図を凝視したまま、「オレの人生は不幸だ」とか「オレは人生勝ち組」とか、益体もないことを呟いていたりもするわけだ。
 
 でも、それって、グーグルアースでロサンゼルスをみてロスを知ったつもりになったり、旅行パンフだけみて「東北地方って遠いんだぜ」と語ったり、高尾山行きの切符をみて「高尾山なんてつまんないなぁ」と旅する前から断定したりするのと同じではないだろうか。人生行路の風景、旅の出会い、突然の出来事も、地図や時刻表や切符をみているだけでは分かりっこない。ありふれた、分かり切った行き先の切符でも楽しい旅というのは幾らでもあるし、遠くてセレブな旅であれば素晴らしい旅かといったら、そうとも限らない。豪華で惨めな旅というのも、貧しいが楽しげな旅というのも、幾らでもある。
 
 確かに、迷子にならないように人生の地図や切符を確認したりするのも大切だ。けれど、切符や地図を凝視することが旅の楽しみや醍醐味を運んでくるわけではないし、自分の人生の喜怒哀楽や車窓の風景までもが切符や地図に印字されているわけでもない。そんなの事前に分かるわけがないし、切符や地図に書いてないところにこそ、旅の悲喜こもごもが含まれている筈である。
 
 だというのに、切符や地図だけをみて、「俺の人生の行き先はここだから負け組」だの「どうせ行き先は成田山なんだから」だの、まるで全て悟りきったかのような態度が、ネット上での書き込みには珍しくない。これは興味深いことだ。まるで、旅の不確定要素をわざわざ自ら放棄して、つまらなくしているかのようにもみえる。
 
 
 

どうして彼らは、切符や地図しか眺めなくなってしまったのか?

 
 私などからすれば、切符の行き先や地図を凝視するだけの人生行路なんて面白いとは思えないし、車窓の風景や途中下車の出会いにこそ、人生行路の不思議と醍醐味があると思えるわけだが、どうして彼らは、若くして切符や地図しか眺めないような旅人になってしまったのだろうか?
 
 断定できるわけではないけれど、少なくとも以下の二つの可能性は、あるんじゃないかと思う。
 
 ひとつめは、幼少期から、切符や地図の凝視ばかり教わって、車窓の風景の眺め方や、途中下車の仕方をろくに習得してこなかった、という可能性だ。
 
 “切符や地図の読み方”や“人生の最短コースや効率性”しか大人から教わらないまま育ってしまった人というのは、今日日、案外たくさんいるんじゃないかと思う。それでもヤンチャな子どもであれば、大人の目を盗んで、電車の床に座ってカードゲームを始めたり、車窓に飛びついてワーワー騒いだりするんだろうけど、やけにものわかりの良い、大人に言われたことに黙って従うような子どもの場合は、切符や地図の読み方に偏った処世術を身につけかねない。あるいは、周囲の大人達の、受験偏差値的・効率至上主義的な価値観を、年端もいかないうちから内面化してしまった(=せざるを得なかった)子の場合も、人生の地図や切符ばかり読んで車窓の風景を省みることのない人間へと育ってしまうかもしれない。
 
 ふたつめは、切符や地図のような“確定事項”“把握可能な要素”の外に目を向けることに対する不安が強すぎるあまり、車窓の風景や途中下車といった“不確定事項”“把握しきれない要素”をまなざせない、という可能性だ。
 
 切符や地図に書かれている事柄は、車窓から実際にみえる風景に比べれば確定的で、全貌を把握しやすい。だから、“不確定事項”や“把握しきれない要素”への不安に耐えられない人が、不安を緩和するための処世術として切符や地図だけを凝視するようになっていった、というのはそれはそれで理解できる話ではある。この場合、自分の人生の切符や地図だけを見つめ続けるという、一見すると勿体ないようにみえる処世術も、メンタルヘルスの安寧を維持するための努力の一環・adjustmentの一環として捉えることができるだろう。色彩豊かな人生行路とは言えないにせよ、メンタルヘルスの破綻を迎えるよりはマシだからそうせざるを得ない、という人は確かに存在するようにみえる*1
 
 

下手にどうにかしようと思うより、そっとしといたほうが良いのかも

 
 どちらの場合でも、当人にとっては精一杯の、社会適応やメンタルヘルスを維持するうえで最もマシな処世術として定着している可能性が高い。なので、「そんなの人生の無駄遣いだからやめなさい」と誰かに指示されたところで路線変更は簡単ではないだろう。また、過度な路線変更の押しつけは当人を混乱させたりメンタルヘルスを脅かしたりするかもしれず、不適当のような気もする*2
 
 思春期までにガチゴチに身に付いてしまった、この手の処世術を路線変更するというのは、それぐらい大変で、面倒で、難しいことだ。ライフハックひとつでどうにかなるような、そんな易しいシロモノとは思えない。生兵法でケガをするぐらいなら、「切符や地図しか見ない人生、そういうのもアリかもしれない」ぐらいの気持ちのほうが、むしろ良いのかもしれない、と、最近は考えるようになってきている。こう考えるのは、果たして惰弱なことなのだろうか?
 
 
 [関連]:すぐに結果が出ないと我慢ならないメンタリティ - シロクマの屑籠
 
 

*1:どうしてそんなに“不確定事項”や“把握しきれない要素”に対して脆弱になってしまったのかは、別途検討してみる価値があるとは思う。例:よっぽど恐ろしい車窓の風景をみてしまったとか、車窓の風景をみるたびに折檻されていたとかetc…

*2:じゃあ、上手い手はあるのか?という話の答えは、いつかどこかで。