シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

『Fate』にみるヘタレエゴイズムと、それに苛立つ私達

 

フェイト/ステイナイト[レアルタ・ヌア] (通常版)

フェイト/ステイナイト[レアルタ・ヌア] (通常版)

 

 衛宮士郎の破綻と再生――「Fate/stay night」におけるポストモダン的不安とその超克―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
 
 『Fate/stay night』かぁ。懐かしい名前をみかけて色々と思い出した。
 
 
 『Fate』に出てくるキャラクター達には、「単なる萌えキャラ」として完成しているだけでなく、従来型の物語でも通用するような“奥行き”を感じさせる好人物がかなり含まれていたと思う。だから『Fate』に出てくるキャラクター達が、私は今でも大好きだ。
 
 そんななかで、例外的に嫌いだったキャラクターがいる。
 それは、主人公の衛宮士郎だ。
 
 彼は、全てを救おうと願う。あるいは正義の味方になろうと願う。全部を救う正義の味方なんて、ウルトラマンでもなれっこないのに*1、である。こうした「全てを救う」「正義の味方」に対する頑迷な拘りは、かえって彼の行動を優柔不断なものにし、他の登場人物による促しや、強制的なイベントに後押しされる形で、もっぱら彼は受動的にしか行動できなかった。そんな有様だったから、士郎はギャルゲー界有数のヘタレ主人公として、長く記憶されることとなったのだろう。
 
 実際のところ、士郎の「全てを救う」という目標設定は、「全てを救わない」「何も選ばないし、選べない」という彼自身の無選択っぷりを糊塗する為の言い訳としてしか機能していない。日常生活のなかで人間に出来ることといえば、「全てを救う」ではなく、「何かを選択して救う」「優先順位をつけて救う」であって、裏を返せば、「何かを選択して失う」「優先順位の低いものを犠牲にするかもしれないということを引き受ける」ということでもある*2。士郎は、「全てを救う」「正義の味方になれるまで修行する」という無限遠の到達目標に拘ることで、土蔵に引きこもったまま、何も選ばず何も決断しない自分自身を自己正当化し続けるような人間だった。
 
 こうした士郎の「決断できなさ加減」が最も醜悪な姿をみせていたのが、セイバーがエネルギー切れを呈し、「私とマスター(士郎)がセックスをすれば、エネルギー切れを打開できる」という場面に追い詰められたシーンだ。
 
 森の中を逃げるセイバーと士郎。迫り来る敵。エネルギー切れを起こして戦えなくなった美少女剣士セイバーは、マスターである士郎との肉体的繋がりをもってエネルギーを補充し、危機的状況を打開しようと決意する。「シロウ、私を抱いてください」と。セイバーの真剣な表情も相まって、胸を打つシーンである。
 
 だというのに、この時の士郎がセイバーに対して喋った台詞は、どう控えめにみても自己正当化の題目にしかみえないものばかりであった。到底、「美少女剣士の決意に自分自身も決断をもって報いる」という風にはみえない、しどろもどろな、ヘタレ男のそれであったのだ。
 
 なるほど、サーヴァント*3たる美少女剣士が、「私を抱いてください、私を抱けば勝つる」と訴えているのは、きわめて重大な局面であり、セイバーが若い娘であることを考えるにつけても、犠牲の大きい選択だと言える。少なくとも、士郎にはそう映ったことだろう。それは分かる。
 
 しかし、セイバーがそこまで決意し、身を挺しているにも関わらず、その決意に対して決断をもって報いず、ウジウジしている士郎というのは、単に格好悪いだけでなく、実はものすごく残酷なことをしているんじゃないか。何が言いたいのかというと、

(1)マスター[主]とサーヴァント[従者]という意味では、サーヴァントの自己犠牲の決意にマスターとして報いず、
(2)男女関係という意味では、セイバーを抱くことに伴う結果を引き受けることを怖れるあまり、尻込みしている

というのは、二重の意味でセイバーの決意を蔑ろにしているんじゃないか。
 
 一見すると、士郎の尻込みは、セイバーに対する“優しさ”ととれなくもない。
 彼女を傷つけたくない。彼女に犠牲を払わせたくない。「全てを救う」がモットーの士郎らしい発想だ。しかし、それがかえってセイバーの決意なり心情なりを踏み躙るようなシチュエーションを生み出しているのをみる限り、あれがまっとうな“優しさ”だとは私には思えない。本当にセイバーに対して“優しい”なら、セイバーの自己犠牲の決意から逃げ惑うのではなく、彼女の決意をしっかり引き受け、事後の結果や責任を背負うことを誓ったうえで彼女を抱くほうがセイバーに対して“優しい”のではないか?それこそが、サーヴァント[従者]としてのセイバーに報い、女の子としてのセイバーに対して誠意と包容力をもって報いる道なのではないか?ところが、「誰も傷つけない完璧な正義の味方じゃなきゃヤダヤダ」という士郎には、これが出来ないのである。それは何故か?彼の“優しさ”の根底に、「誰も傷つけない自分」というエゴイズムが根底に横たわっているからだろう。
 
 こういう観点からみれば、『Fate/stay night』という物語は、「誰も傷つけない自分」を盾にエゴイズムに引きこもる男性が、ヒロイン達の身を挺した頑張りのお陰もあって、どうにか成長していく物語、といえる*4。この作品はテキスト量が膨大で、士郎のウジウジからの脱却が遅くてイライラする部分もあるが、それでも視聴者を退屈させず、魔術師としての士郎の成長物語と交叉するよう巧みに物語を練っているあたりは、作者の奈須きのこさんの面目躍如といったところだろう。ヘタレ男性が成長していく物語を見守りたい人に、是非お勧めしたい作品である。
 
 

どうして、ヘタレ主人公に苛々しなければならないのか?

 
 ところで、どうして私は、自己正当化に終始する「ヘタレ野郎」に苛立ちを感じているんだろうか?同じような疑問は、ヘタレ主人公達に苛々したことのあるプレイヤーなら一度は頭をよぎったことがあるんじゃないかと思う。
 
 世の中には、『Fate』をプレイしていても、士郎にちっとも苛々しない人もいるかもしれないし、ヘタレだなとは思っても、気持ち悪くならない人もいるかもしれない。同じヘタレ主人公をみていても、苛々する度合いは人それぞれの筈だ。
 
 そうやって考えていくと、「私のなかのヘタレな部分」を士郎に投影して、私は苛々しているのではないか、という疑念が浮かんでくる。自分自身のヘタレな部分を自意識から吐き出し、自分以外の何かに押し付けて吐き出すゲロ袋として、私は士郎のヘタレっぷりを“活用”しているのではないか?
 
 思えば、他のヘタレ主人公をみた時もそうだった。『君が望む永遠』や『school days』のヘタレすぎる主人公達をみて、やけに苛立ったり、誠氏ねと連呼したりするのは、極単純に彼らがヘタレだからというだけでなく、彼らを罵倒する私達自身の内側に、ヘタレキャラに押し付けて吐き出さずにはいられないような、嫌な成分がたっぷりと含まれているからではないだろうか。だからこそ、ヘタレ主人公を罵倒することで、自分のなかのヘタレで嫌な部分を吐き出して、スッキリしたような気分になっているのではないだろうか。
 
 今回挙げた『Fate/stay night』の主人公・衛宮士郎に代表される「誰も傷つけたくないから決断できない、というヘタレエゴイズム」というのは、昨今の男性にとって未だタイムリーなエゴイズムだと思うし、多くのヘタレ主人公作品にも共通しているものだと思う*5。だから私なども、こうした作品群とヘタレ主人公達を笑って済ませられないし、ヘタレ主人公を罵倒してスッキリする自分自身の後姿を省みると、「これって俺の投影だよなー」というほろ苦い認識に辿り着かずにはいられない。
 
 
 [関連]:伊藤誠の使い方(精神的下剤としてのヘタレヒール) - シロクマの屑籠

*1:ウルトラマンが戦うと、怪獣はやっつけられても、周りのビルが壊れてしまうわけですよ。

*2:いや、これは日常生活に限った話ではない。緊急災害時や超常状態のなかでこそ、むしろこのような「選択するもの・しないもの」という決断は、最もえげつない形で現われてくるものだろう

*3:Fateの世界では、マスター[主]と呼ばれる人間が、サーヴァント[従者]と呼ばれる召還された戦闘者とタッグを組んで聖杯を巡ってバトルする、というストーリー立てになっている。士郎とセイバーは、マスター[主]とサーヴァント[従者]としての関係にある

*4:たった一人のヘタレ男性の成長のために、ヒロイン達がどれほどの涙を流しどれほどの対価を支払うのか、というアングルでこの作品を眺めると、非常にばつの悪い気分になるので、素人にはお勧めできない

*5:そういえば、今連載中の『ガンダム00』の沙慈・クロスロードも、このタイプの男性キャラクターのようにみえる。果たして、彼はヘタレエゴイズムから脱出することが出来るのだろうか?