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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

「子どものリスク管理」をし過ぎることのリスク

コミュニケーション

 
 
 先日(12/16)の読売新聞朝刊の一面トップの記事が、『小中携帯、原則禁止を』というものだった。なるほど。小中学生を、出会い系サイトのリスクや“所謂ネットいじめ”のリスク*1から守る、というただ一点だけを考慮するなら、携帯電話を子どもから完全に取り上げてしまうような提案は、手堅い言えそうだ。
 
 この一面記事によれば、「学校への携帯持込みは禁止する」が、学外では「家庭ごとにルールを定めるように奨励」する、という方向らしい。学校への持込みを制限しようがしまいが、携帯電話やPC端末は放課後に幾らでも使えるわけで、アクセシビリティを本気でコントロールしようと思ったら、“親がコントロールする”しかない。最終的に、一人の子どもが携帯電話やインターネットに[何歳から][どれぐらいまで]アクセスできるかの裁量を、学校教育が判断するというよりは親の教育方針に委ねるというのは、概ね妥当にみえるし、それ以外の選択肢もないようにみえる。
 
 実際、小中学生による携帯電話の不適切な使用が頻発している以上、ある程度のコントロールはやむを得ないというのはわかる話で、そのためのガイドラインを設けようという動き自体は悪いものではない*2。全面禁止にするような愚をおかすならともかく、「携帯電話のあぶない使い方を制限しながら子どもに慣れてもらう」ことを主旨とした制度づくりは悪いものじゃない。
 
 
 

禁止や制限で「子どものリスク管理」をしすぎることのリスク

 
 
 ただ、ちょっと引っかかるところもある。
 
 この携帯電話管理に限らず、今の子どもをとりまく環境は、「大人が子どものリスクを出来る限り排除する」方向で徹底している。あるいは、「親や大人の目の届くかたちでリスクを制御しようとする」方向で徹底している。危ない沼沢にはフェンスを設け、公園の砂場からは猫の糞を取り除き、事故が起こる可能性が疑われるならジャングルジムやブランコも片っ端から撤去する。ランドセルにはGPSをとりつけ、スケジュールを塾や習い事で埋め尽くし、交友関係を管理するような子育てまでもが許容され、ときには推奨すらされているというのは、それはそれで別種のリスクに繋がるのではないか。
 
 自分が育った頃のことを思い出すと、子ども時代、底なし沼にハマってみたり、地元のヤクザまがいのおっちゃんに怒られてみたり、親の目の届かないところでは随分あぶない経験を重ねてきたと思うし、親にはバレない秘密*3を友人達と共有しあってきた。そうやって、何が危なくて何が危なくないのかを嗅ぎ分ける嗅覚を養ったり、地元のどこと誰が危ないのかについて、具体的な経験をクラスメート達と一緒に共有してきたものだ。そして、その手の実地で確かめられ情報交換された危険情報には、親や先生から頭ごなしに「禁止」されただけでは持ち得ない説得力があった。
 
 だから、私はしばしば思ってしまう。「子ども同士の間で、それも自発的なかたちで「これは危ない」「あれはヤバい」と確かめあいながら情報交換していくプロセスは、「何が危なくて」「何がそれほど危なくないのか」を判断する技能を養ううえで、ひょっとしたら相当に重要なのではないか?」と。
 
 ところが、「親によるリスク管理」が行き届きすぎると、こうしたプロセスは体験困難になってしまう。「大人に禁止されたものを守る」ことだけを鵜呑みにし続けた子どもは、禁止事項を律儀に守る大人になれるかもしれないが、リスクを自主的に嗅ぎ分け判断する能力をもった大人になりにくくなるのではないか。まあ、子どものうちはそれでも構わないかもしれない。だが、大人になってからは、自分で考え、自分でリスクを判断しなければならない場面に幾度も遭遇することになる。その際、「何が危なくて、何が危なくないか」を誰かに*4決めてもらわければならないような大人に育ってしまったら、なんだか物凄く頼りなくて危なっかしいのではないか。多少不完全にせよ、自主的にリスクを嗅ぎ分け判断しようとする意志と能力を獲得した大人に比べて、かえって将来のトータルリスクの高い人生を歩くことになってしまうのではないだろうか。
 
 子どもから大人へと育っていく過程のなかで、その場その場のリスクを低減させることを至上命題とするなら、確かに、「リスク管理」「リスクを大人が判断し、遠ざけること」のが一番だ。しかし、大人の禁止とコントロールに従うだけの子どもが、自分でリスクを判断し、自分の意志でリスクを管理できるような大人になれるかと言ったら、それは無理なんじゃないかとも思う。禁止事項に従うことばかりを蓄積させ、自主的な判断のノウハウを蓄積させていないような子どもが、リスクだらけの現代社会に追随できるような、自主的判断力のある大人に果たして成長できるものなのだろうか*5。与えられた枠づけを守る以外には判断力の無い、“籠のなかの小鳥”“箱入り娘”になってしまうのがオチなのではないか。
 
 もちろん、リスクだらけ・見えないところだらけの現代社会に、イノセントな子どもを野晒しにしてしまうというのも無謀に違いない。子どもを“holding”する地域社会が無くなり、近所にいる人の顔もよく分からなくなっている都市空間は、かつての下町や農村とは事情が異なるし、子どもの携帯電話使用やインターネット使用をまったく無制限にすれば、どんな事になるのか知れたものではない。だから、何らかのコントロールが必要だというのは分かる。
 
 けれど、子どももいつかは大人になるし、自分の力でリスクを嗅ぎ分けなければならない日は来る。安全管理を優先させるあまり、自主的に判断するノウハウを蓄積するようなプロセスを子どもから奪ってしまうような管理体制は、その子が大人になった頃に、猛烈な副作用を呈するかもしれない。そういう疑問符は、頭の隅に留めておいたほうが良いのではないか、とは思う*6リスク管理を徹底させると浮かび上がってくる、「リスクを自発的に判断するためのノウハウが蓄積できない」というリスク。このリスクに、もっとスポットライトがあてられても良いのでは?
 
 
 

*1:この、ネットいじめのリスクに関しては、荻上チキさんの本『ネットいじめ』が詳しい。この『ネットいじめ』にも書いてあるが、残念ながら、この現象にはかなりの勘違いや誤解が蔓延しているようにみえるし、この新聞記事と『ネットいじめ』を読み比べる限りでは、文科省もどちらかといえば誤解をしているんではないか、という心配もなくはない

*2:それに、学校という学びの為の空間に、携帯電話というマルチプルなゲーム機になり得る道具を持ち込む、という事への警戒みたいなものも、あってもおかしくないわけだし。

*3:ただし実際には、地域の大人ネットワークを通して、ある程度はバレていたんじゃないかとも思う

*4:例えば、親に

*5:ついでに言えば、そんな禁則に唯々諾々と従うだけの状況下で、情緒と自発性の面でまともな発達が自然と進行するのだろうか?という疑問もあるが、今回は触れずにおく

*6:尤も、もとからすごく元気の良い子は、親や教師がどういうコントロールを敷こうとも、管理の隙間を縫って、秘密のかたちであれこれのリスクに接触し、自主的な判断力を磨き上げていくのかもしれない。これまでもそうだったように。しかし、この手の“抜け道探し”は、管理が厳しくなればなるほどアンダーグラウンドなものになりやすく、そのうえ意志の強い子だけの特権になっていきやすい点には留意しなければならない。