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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

服オタが、贔屓のブランドが叩かれて必死になる理由

執着

 
 服オタはなぜコムデギャルソンを叩くのか? - Alcesteのお洒落徒然草
 
 リンク先の、コムデギャルソン関連のテキストがとてもまとまっていて興味深かった。だが、それ以上に興味をそそったのは、服オタが、自分の着ているブランドを叩かれた時の必死さ加減についての描写で、こういう人って確かにいるよなーという印象を深めたのであった。

ギャルソンに限った話ではないですが、服オタは「自分はまだお洒落には遠すぎる」という、常に激しい劣等感を持ち続けているもんだと思うんですね。
それが、ギャルソン信者の場合はギャルソンという掴みきれないものが巨大であるがゆえに、余計に強烈な劣等感を持ってしまうのではないでしょうか。

http://blog.alceste.net/archives/18

 この手の持続的な劣等感は、ギャルソンに限らず、「ファッションブランドを理解し、自分に相応な服を着ている」という感覚よりも「俺は服に着られているんじゃないのか」と不安を感じる人達に高頻度でみられる。自分自身の劣等感を糊塗するためにファッションブランドを必要としている人にとって、ブランドもののアイテムは自分自身のバリューを(見かけ上)引き上げるために必要不可欠なアイテムであると同時に、劣等感をもって省みられる自分自身との間にギャップを含んだアイテムであり続ける。このため、ブランドを身につけて自分自身の価値を埋め合わせてみたところで[優等なブランド>劣等な自分自身]というギャップは残存し続け、劣等感の燻りも残存することになる。自分自身への劣等コンプレックスの濃厚な人が、高いブランド物を鎧代わりに使おうとする場合には、このようなギャップは殆ど不可避といえる。
 
 服オタが自分の着ているブランドを叩かれて必死になる理由は、もう一つある。自信に乏しく無価値で劣等な自分自身(だと思い込んでいる)に対して価値を与えてくれ、自信をアウトソーシングしてくれる数少ないよりどころを失ってしまうからこそ、服オタは逆上し必死にならずにいられない(=不安になる)のだ。
 
 服オタ・ファオタのなかには、自分自身の自信や価値といったものをブランドや服にアウトソーシングすることで、それで何とか心の均衡を維持している人が珍しくない。もともとブランドや服には、自信や価値を提供するという効果が少なからずあるが、自分自身の価値づけや自信に欠け、着ている服以外には誇れるものが無いタイプの服オタの場合はその度合いが顕著で、自信や価値づけの数少ない(時には唯一の)よりどころとなりやすい。「○○ってブランドを着ている俺TUEEEE!」ぐらいしか己の自信や価値を見出すよりどころが無いというのは、まあ、色々お察しなわけだが、世の中にはそういう人も確かにいるし、それに準じる感覚の“ファッションの威を借りる狐”は遭遇頻度も高い。こうした人達にとって、自分の服やブランドを貶されるというのは、自分自身に自信や価値をアウトソースしてくれる唯一の補給線を潰されるに等しく、もっと言うと、自己否定されることにも近い*1。自分に価値をアウトソースしてくれる唯一の補給線が潰されると、彼らは自分自身の無価値感・自信の無さ・劣等コンプレックスといったものすべてに直面しなければならないのだから、必死になるのもわからなくもない。
 
 こうした必死さは、自分自身の自信がそれほど潰れてない人や、劣等感がひどくない人にはあまり縁が無い必死さだといえる。また、よりどころをファッションブランドに依存しすぎていない人にも無縁な必死さだといえる。だが、自分自身の自信の無さや劣等感を糊塗し、自分自身を価値づける唯一の拠り所としている人達にとっては、絶対死守すべき、必死にならずにいられない問題といえるだろう。

*1:では、単にファッションブランドへのリスペクトに対して泥を塗られたから怒っている、というのはどうなのか。この場合も、そのリスペクトが自己イメージに肯定的な効果をもたらしているとすれば、それほど違わないような気がする。例えば「自分は惨めだけど、○○というブランドは素晴らしくて俺はそれをリスペクトしている」という構図においては、自分自身の身締めさをブランドは直接には肩代わりしていないが、自分自身の惨めさを代償する手段としては、成立している点に注意。