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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

過剰なネット承認欲求と、神経の磨耗について

 
 
 ネット上の人間はなぜ、pixivに絵をアップするのか?どうしてtwitterやblogにあれこれ書くか?その動機のかなりの部分が、“他人からのまなざしに触れたい”“他人に認めて貰いたい”“認めて貰いたい”といった欲求に占められていることは、既に多くの人が気づいていることと思う。ポジショントークの必要なプロフェッショナルはともかく、アマチュアユーザーが何かに言及し、なにがしかのコンテンツを創りあげアップロードする駆動力の源は、いわゆる承認欲求による部分が大きい。
 
 私は、承認欲求を抱いていること自体は人間として自然なことだと思うし、それがコンテンツのかたちで昇華されることも喜ばしいと思っているけれども、この手の承認欲求を追い求めすぎるあまり、神経をすり減らすような状況は好ましくないとも感じる。しかし、インターネットサービスの殆どは、この承認欲求の欲求を焚き付けたり、限界まで搾り取るには適していても、神経のすり減らし具合と上手に折り合いをつけるところまではサービスを提供してくれない。
 
 例えば、mixiの足跡機能、twitter、(間もなく実装されるという)はてなブックマークのお気に入られ機能、といったものは“他人からのまなざしに触れたい”“他人に認めてもらいたい”という承認欲求を充たすには適したサービスだといえる。足跡がつけば嬉しい、twitterのfolowerが増えることが嬉しい、気に入られることが嬉しい、といった喜びを、ストレートに、どこまでも、追求することが出来る。
 
 ところが、こうした承認欲求のたぐいが過剰なまでにエスカレートしてしまう人がいる。mixiの足跡やtwitterのfollowersが、最初は10人ぐらいで満足だった筈が、50人、100人、と欲が深くなってしまう話は珍しくないし、いったん増えたfollowersが減ると、寂しいと感じる人も多いかと思う。これが、「あーあ寂しいなぁ」で話が終わりならまだマシだが、もっと悲惨な人もいる。寂しさを回避するべく「最もまなざしをかき集めやすい発言」「followersや足跡が最も減少しにくい発言」に過剰にとらわれ、やたらと神経をすり減らしてしまうような人だ*1
 
 他人のまなざしを集めれば集めるほど・承認欲求を体験すればするほど渇望がエスカレートする人は、渇望のままに、信じ難いほどの時間とエネルギーを費やす。そして、沢山のまなざしや承認をかき集める為なら(そして、まなざしを与えてくれる人々から見捨てられない為なら)、自分自身の健康すら省みない。たとえ“mixi疲れ”のような状態が深刻になったとしても、まなざしの渇望に耐え切れず、自分に鞭打ってスポットライトの下に這い出してしまうのだ。このような人達にとっての承認欲求は、まるで、呪われた赤い靴のよういだ。赤い靴を履いてしまったら最後、どれほど疲れていようともスポットライトの下で踊り続けなければならないのだ----自分自身のホメオスタシスが維持できなくなる、その日まで。
 
 

渇望の強い人への処方箋

 
 じゃあ、そういう人は、どうすれば良いか?

 正解はシンプルで、承認欲求を求める範囲を、適度に限定すれば良い。とはいえ、それが難しいのだが。
 
 単純な話、mixiのマイミクを半分にする・twitterのfollowersを半分にする、といった形にすれば、その分だけ神経を使う範囲を減らせる。または、特定のネットコミュニティやネット知己に期待する度合い・褒めて貰いたい度合いを少なく出来れば、ヤキモキする度合いを軽減できる。一般に、まなざしや承認欲求を求める人数を減らしたり、高頻度高純度な要求水準を減らすような手法は、神経の磨耗を防ぐうえで有用だ。吟味しなければならない情報量はそれだけ少なくなるし、“mixi疲れ”にありがちな八方美人を演じなければならないような気分も、視界を親しい人だけに絞り込めば相当ラクになる。そうすれば、神経の磨耗を回避することが出来るし、余計なトラブルや摩擦にエネルギーを空費する必要も少なくなる。
 
 だったら完全にネットをやめてしまえばいいじゃないか、と言う人もいるかもしれない。だが、この手の人のなかには、まなざしや承認欲求が充たされる場が他に殆ど無くて、だからこそネットにしがみつかざるを得ない、という人が少なからず混じっている。そういう人が完全にネット絶ちをする際、代替する形でまなざしや承認欲求が提供されない限りは、高確率で“さびしくて死んでしまうウサギ”のような境地に追いやられる。
 
 よって、渇望に溺れすぎれば神経を磨耗しつつ、“さびしくて死んでしまうウサギ”になってしまわぬようにするには、神経を磨耗しすぎない範囲で、ネットを適度に続けるぐらいが望ましい。だが、節制でもって執着を制御するというのは誰しも難しいことなわけで、承認欲求への渇望に執り付かれた人に節制しろと命じるのは、相当に酷というほかない。しかもインターネット上には、この種の渇望をむさぼるのに最適なサービスがバリエーション豊かに揃えられていて、承認欲求に飢えた人達を常に誘惑しているときている。
 
 

ネットサービスの進化は、彼らにとって福音か?地獄か?

 
 現状のインターネットサービスには*2、渇望の強い人が承認欲求にとらわれるままに神経を磨耗するような事態を防ぐようなシステムは存在しない。そしてtwitterにせよ(mixiの)足跡にせよpixivにせよ、渇望をマッチポンプする方向にばかりサービスが進化しているようにみえる。このため渇望の強い人は、自由に、際限なく、神経を磨耗することが出来てしまう。承認欲求の渇望が強い人にとって、twitterの登場やmixiの足跡機能やpixivは本当に福音といえるのか?それとも執着無間地獄なのか?
 
 自由すぎる選択肢は、自由を制御できない人間には、不自由よりも残酷な結末をもたらす*3。近頃のインターネットサービスの進化は、承認欲求をかき集めるのに適した手段をあれこれと提供してくれるけれど、節制を維持する手段や処世術は殆ど提供してくれない。このあたりのギャップについて、もう少し警戒があってもいいんじゃないかと思うし、ネット上で承認欲求の無間地獄に堕ちる人達を笑っていられるのかな、と我が身を振り返ることもある。それとも、こんなことを心配しなくても良い程度に、今日日の娑婆世界は聖人君子に満ちている、とでもいうのだろうか?そうであれば良いのだが…。
 
 
 

*1:実際のインターネットユーザーの大半は、followersや足跡の減少に一抹の寂しさを感じることはあっても、その寂しさを回避する為に・承認欲求を拡大再生産し続ける為に、無茶無体を繰り返したり、神経をすり減らしすぎることは無い。あまり注目を集めない自分自身に折り合いをつけるか、段々と疎遠になっていくような、凡庸にせよ精神衛生に無理の少ない選択肢に向かっていく

*2:というよりは、むしろ現代日本の娑婆世界には

*3:残酷なだけでなく皮肉な結末であることも多い。彼らはしばしば、手持ちの自由を最大限に駆使して、最も窮屈で不自由な境遇へと疾走する。