シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

愚かさとインターネット----情報へのアクセシビリティは“愚者”に何をもたらすか

 
 
http://d.hatena.ne.jp/RPM/20081026/1224958362
 
 いまや、“愚者”を世界から守る壁は存在しない。
 情報機器とインターネットの発達や、都市化・都会化したライフスタイルは、“愚者”が世界に直接アクセスする機会を増大させる。愚かな行動が可視化されるだけでなく、愚かさをオープンに発揮する機会そのものも、おそらく増大してしまう。
 
 
 かつて、“愚者”は世界に直接曝されることは無かった。テレビやラジオや新聞広告といった情報に右往左往することはあったし、それらがもとで馬鹿をみることも無くは無かったが、大きなメディアから与えられる情報にはある程度のフィルタリングと、品質の保証が期待できた。少なくとも、“嘘を嘘と見抜けない人には難しい”というほどではなかった。また当時は、メディアを通して何かを発信する機会も、メディアに向かって行動する機会も少なかったので、“愚者”の側が世界から直接まなざされることも、愚かな所業を世界に撒き散らすことも、あまり起こりえなかった。そのうえ、ムラ社会や下町には互いに見知った顔も多い。このため、近所に悪い噂が広まると困る、ぐらいの分別のある人であれば、近所の食堂で食ってもいない飯代をたかろうとは思いもよらなかった*1
 
 ところが、インターネットが、情報技術が、都市化が、“愚者”を世界と直結可能にした。“愚者”を世界から優しく隔絶していた障壁は、かくして取り払われた。今では、どれほどの“愚者”であろうとも、2chやSNSやYouTubeを通して自由に情報発信/情報受信することが出来る。その結果、今、何が起こっているのか?
 
 テラ豚丼騒動*2のような愚行を日本中に曝して人生をドブに捨てたり、2chに憂さ晴らしの殺人予告を書いて通報されたりすることが、“愚者”にも気軽に可能になったのである。情報を受信するのも、ただテレビを眺める時代ではない。自分から情報にアクセスし、自分の判断で取捨選択する時代が到来したわけだが、これは思慮深く判断力豊かな人にとっては福音だったにせよ、嘘を嘘と見抜けない情報の取捨選択の出来ない“愚者”にとっては、騙されるリスク増大や搾取されるリスク増大に直結しがちだ。ちなみに、じゅうぶんに“愚者“な人達は、熟慮や判断力を養う修練場としての機能をwebに期待しておらず、欲望を即座に安価に充たしてくれる自販機としての機能をこそwebに期待しているので、日々のネットライフが判断力を養う、なんてことは殆ど望み薄である。
 
 そのうえ都市空間の生活には、ムラの世間体や近所付き合いというものが希薄なので、都会の自由な空気を目一杯に生かした“愚者ライフ”が可能になってしまった。近所付き合いやムラ社会がかつて提供していたような、常識の枠・モラルの枠といった安全装置が用意されていない都市空間では、“愚者”はごく簡単に逸脱することができてしまう*3。どんな愚行蛮行も、近所や世間体の存在しない空間では自由に可能で、それはワンルームマンションの内側だけではなく、一度しか訪れることのないファミレスやデパートでも同じである。どれほど野蛮に振舞ったところで、食ってもいないファミレスの料金を請求してみたところで、“都市空間の恥はかき捨て”なのだ。そもそも、都会の“愚者”に、恥の感覚というものを持つ必要性があるのだろうか?----誰に対して恥じる必要があるというのだ?神に対して?*4 自分に対して?*5 おそらく“愚者”に最もリアルな恥の感覚を与えてくれたであろう、近所付き合いの目線は、もう存在しない。
 
 21世紀は、世界にダイレクトに接続された“愚者”が、伸び伸びと愚行に耽ることが可能な時代だ。“愚者”も自由にアクセスし、自由にその愚かさを行使できてしまう時代。そして“愚者”が愚行を伸び伸びと発信しやすくなると同時に、(id:RPMさんが仰るように)それらの愚行を観測しやすい時代でもある*6。情報社会やウェブの発展をみていると、私達はついつい[知的可能性のフロンティア][機会を掴む可能性の増大]といったポジティブな面に目を向けてしまいがちだが、一方で、この手の“愚者”には[痴的可能性のフロンティア][破滅を掴む可能性の増大]をもたらし得る点を見落とすわけにはいかない。情報社会・都市化社会は、それを通して誰もが一律にお利口さんになるような社会ではないし、(webをはじめとする)情報へのアクセシビリティは思慮深い市民の増大を約束するものでもない。判断力や思慮のある者にとって機会を増大させるツールが、思慮に欠けた者にとっては、衝動的な愚行を拡大再生産したり、愚かさに磨きをかけたりする為のツールとなり得る点には、もっとしつこい着眼が必要だ。そして、そのような人間が実は結構多いということ・自分自身も状況次第では“愚者”の側にまわり得ること にも十分な注意が払われて然るべきだろう。
 
 たぶんだけど、現状、webの半分ぐらいは愚かさで出来ている。これからもそうだろう。
 
 
 
 [関連]:都市空間のスピード・流動性に対して感じる不安 - シロクマの屑籠
 [関連]:“村の掟”が不要な人/必要な人の明暗 - シロクマの屑籠

*1:逆に、こういう狭い世間で、食ってもいない飯の払い戻し金を自由に飯屋から引き出せるような対人関係というのは、推して知るべし、だろう

*2:参考:http://d.hatena.ne.jp/ruushu/20071201/yoshinoya

*3:なお、あまり愚かではない人にとっては、近所付き合いやムラ社会の用意するような枠組みは、足枷となる点には留意しなければならないし、ムラ社会を理想化しすぎるのはまずいだろうなとは思う。また、都会の自由を十分に聡くモラリッシュに乗りこなせる人にとっては、都市生活が多大な利点を提供するというのは、もちろんです

*4:神は死んだ!否!日本には、その神は上陸すらしていない!

*5:例えば超自我、などというものを薫習する機会が、私達に与えられていたら、いいのだが。しかし時代は神経症の時代から、そうではない時代に以降していることが暗示するように、超自我は今では奢侈品同然である。

*6:踊る阿呆にみる阿呆、という状況が、既にネットのあちこちで起こっていることは、賢明な皆さんならご存知のことだろう