シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

議論・運動を囲んでオクラホマミキサーを踊り続けたい人達

 
 
 それにつけても、人間というのは本当に複雑だ。
 
 同じ動機に衝き動かされるとしても、十人いれば十通りの行動があり得るし、逆に、同じひとつの行動のバックに潜む動機もまた、十人十色のバリエーションがあり得る。だから、自分自身や他人の心を観察して、動機と言動とを結びつけようと思っても簡単ではない。ひどい時には、動機と行動とがまるで正反対のような見かけを呈することさえあり得るのだから。
 
 
 さて、インターネット上をみていると、社会を糾弾するシュプレヒコールを繰り返している人達や、いわゆる“運動”を呼びかけている人の姿が散見される。彼らもまた、十人十色の様々な動機に基づいて、あれこれやっているのだろうとは思う。本心から社会に変わって欲しいと思っている人や、自分自身の問題を少しでも解決に近づけたいと思っている人などは、動機と言動とを結びつけやすいかもしれない。彼らはきっと、議論や運動がソリューションへと繋がっていくことを夢見て、その為に注力しているんだと思う。
 
 一方で、もっとややこしい動機に衝き動かされている人も、このなかには混じっているようだ。確かに、社会改革を口にしている。また、デモや啓蒙活動を呼びかけてもいる----にも関わらず、議論や運動を具体的なソリューションに繋げていくことは、二の次、三の次な人達。そのような人達にとって重要なのは、[議論や運動を通して承認欲求を充たせるか否か][自分自身の夢に自己陶酔出来るか否か][その話題を通して友達づくりが出来るか否か]であるように見受けられる。
 
 

議論や運動を囲んで“テカテカ”していたい人達。

 
 彼らの議論や運動にとって、具体的方策やソリューションは必ずしも重要なものではない。むしろ煙たいような、ありがた迷惑なものとさえ言えるやもしれない。なぜなら、議論や運動を通して自分自身の承認欲求やアイデンティティの備給せずにはいられない人にとって、ソリューションや具体策によって問題が解決に向かうというのは、承認欲求やアイデンティティの場が失われていくことと、ほとんど同義だからだ。彼らにとって、議論や運動は“仲間と輪になって楽しむキャンプファイヤーの炎”のようなものだ。自意識を暖め、頬を紅潮させながらオクラホマミキサーを踊り続けるには、火の粉を吹き上げ天まで焦がすような、消えそうにもない炎こそが望ましかろう*1
 
 議論や運動と一言で言っても、ソリューションを通して次のステージへ移行したいという動機の強い人と、単に議論や運動を通して承認欲求やアイデンティティを充たしたいだけの人では、自ずと姿勢も変わってこよう。後者の場合、議論や運動がいつまでも継続することこそが望ましいわけで、非現実的な、むしろ問題をますますこじらせかねないような議論・運動に拘り続けるぐらいのほうが、“いつまでも仲間達とキャンプファイヤーの炎を囲むには向いている”。このような人達であれば、問題の発火源を敵対視するだけでなく、火を鎮火させようとする人達まで敵対視するような境地に到達したとしても、それほど不思議ではない*2。そして「真の解決に結びつく手法はまだ現れていない。もっと理想的な手法であるべきだ」というお題目は、このような人達のポジションを防衛するには必要十分なので、彼らはキャンプファイヤーの炎の周りで、いつまでもオクラホマミキサーを踊り続けることが出来る。
 
 同じ言動をとっている人がいても、背景にある動機やメリットは十人十色。議論や運動の類も、ソリューションや具体策が欲しくてやっている人や、実践を念頭に置きながらやっている人ばかりではないというのは、記憶しておいていいんじゃないかと思う。もちろん、ある程度までは、議論や運動の背後に自意識の備給やアイデンティティの備給が含まれているのが自然で、それがいけないと言うつもりは無い。とはいえ、自意識やアイデンティティを備給する度合いがあまりにも強すぎて、いつまでも議論や運動の周りをグルグル回り続けることがすっかり目的化してしまっているような人には、ある程度注意深くなっておいたほうがいいだろうし、そういう人達の後をノコノコついていったら、なんだかヤバそうだなぁ、という気はする。
 
 

*1:この点において、ある種の非モテ議論・非モテ運動などは、キャンプファイヤーの炎として殆ど完璧に近いいえる。

*2:ソリューションを提示する奴も、実践にうつす奴も、キャンプファイヤーの炎を消してしまう敵だ!と、意識して考える人はさすがにいないだろうし、そのような意識が働かない人においてこそ、こういった行動が成立するのだ、とも言える。