シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

『ゼロ年代の想像力』という“スタート地点”

(※この文章は、それほど多くはネタバレを含みません。ネタバレを踏まえた文章は、後日何かの形で書くと思います)

ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力

 
 
 
 ゼロ年代の想像力をやっと読み終わった。僕は評論というジャンルがどういうものなのかをよく知らないので、これが文芸評論としてどういう出来映えなのかは分からない。なので、作品論を通して現代社会のコミュニケーションやメンタリティを描写しようとした試み、という風に僕は読んでいたし、その限りでは非常に挑発的な、面白い問題提起だと思った。
 
 個人的には、引っかかるところも幾つかあった。例えば宇野さんが美少女(ポルノ)メディアと呼称する、一連の美少女コンピュータゲームの分野に関する記述をみても、Fate以外の多くの作品が『セカイ系』という括りにされ、それらの対照として、様々なドラマ作品や平成仮面ライダーが位置づけられているが、それほどすっきりした話ではないと思う。美少女コンピュータゲームの作品群においても、『涼宮ハルヒの憂鬱』と同じぐらいには、人生の一回性を意識しはじめた作品や・終わりの無い日常ではなく終わりのある日常への強い指向を示した作品は出てきているし、そういった作品も相応にヒットしているとも思う*1。また、ケータイ小説とライトノベルの対比のところは、僕はむしろ両者は同列同質の構造のものだと思うし、だからこそエロゲーオタクとケータイ小説消費者の近親憎悪的な投影合戦はいやがうえにも高まるのではないか、とも思う*2。僕個人は、ケータイ小説もまた、[東京][ホスト][レイプ][リストカット]などの記号群のデータベースをもとに、少ないテキストからシミュラークルを立ち上げて想像力を楽しむタイプのメディアだと思っているし、浜崎あゆみの抽象的な詩がキレイにみえるのも、エロゲーやケータイ小説の“単音オルゴール的モノローグ”が効果的だったのも、非常に似通った現象ではないかとも疑っている。
 
 しかし、そういう細かい違和感を挙げつらって、減点法で読む本でもあるまい。大筋としての「空間もコミュニケーションも変化した21世紀において、私達がどう振る舞っていくか・どう生きていくのか」に関する議論にこそ、僕は注目せずにはいられなかったし、そここそがこの本の問題提起なのだろう、と思いこむことにした。
 
 宇野さんが指摘するところの、[肥大する母性のディストピア][自己正当化のロジックとしての“安心できる痛み”の消費][キャラクター消費]といった種々の要素もあって、私達は、コンテンツ消費の世界でも、クラスメートや会社同僚とのコミュニケーションの世界でも、他者性との遭遇や痛みを回避したまま生きていくことが出来る(より正確には「出来てしまう」)。そして他者性との遭遇や痛みを回避したまま、そのことにすら無自覚のまま、バトルロワイヤル的なコミュニケーション状況のなかで他者を消費する(またはされてしまう)ことに慣れきっている。かと言って、“バトルロワイヤルに勝てば”充実した生が保証されるかというとそういうわけでもなく、負けた者は勿論として、バトルロワイヤルのプレイヤー達は、いつも浮かない顔をしたまま、強迫的に承認や充実を求めて彷徨っている----こうした昨今の現状を、作品論を経由するという形式をとりながら問題提起し、なおかつそれをディストピアと諦めるでもなく、消費に埋没する境地に安住するでもなく、どうしていきますかね、というのが宇野さんの問いかけなんだろう。そしてこの現状認識の為のキータームとして、『決断主義』という語彙は位置づけられるのだろう。
 
 コミュニケーション*3の可否を問われるような、異なるトライブの決断主義者同士のバトルロワイヤルが終わり無く続いている、という状況をどう乗り越えるのか。または、乗り越えるべきものなのか。ネタバレになってしまうので宇野さんの結論については書かないが、『ゼロ年代の想像力』には宇野さんなりの回答が書かれていると思う。そして回答の書かれたラストに至るまでのプロセスとして、それまでに積み上げた作品論はなるほど必要だったのだな、とも思う*4。この本は、決断主義やバトルロワイヤル的コミュニケーション状況に絶望する為の本ではない。現状認知を踏まえて、じゃあどうするか、を考え始める(宇野さんなりの)出発の本なのだろう。と僕は思った。
 
 賛否両論、色々出てくる挑発的な本だろう。でも、減点法で駄目出しをするには勿体ない、うずうずせずにいられないような、何かを語らずにはいられないような、それこそ想像力を刺激する本だった。宇野さんとて、この本一冊で「俺は結論に到達しました」などと言うつもりでは無く、長い議論の過程の一里塚として『ゼロ年代の想像力』を位置づけていることだろう。“宇野節”へのアレルギーがある人はともかく、そうでない人には、現代コミュニケーションを考えるうえで興味深い補助線の一つとしておすすめ出来るんじゃないかと思う。賛同するに良し、苛立つに良し。宇野さんと同世代の人間の一人として、喜怒哀楽にまみれながら読みました。
 
 [興味深い書評:]http://blog.goo.ne.jp/f-ryota/e/4ebbe16b1498b295513e52ea8506cbca
 

いやぁ、想像力を刺激されちゃいました。

 
 想像力を刺激され過ぎたので、ある程度時間が経ったら、ネタバレを踏まえた返答というか、宇野さんに対する僕なりのdiscussionをぶつけてみたいと思う*5。宇野さんの考える“処方箋”は、僕が考える“処方箋”と、やはり少し違っているようだ。この違いは、ひとつには、宇野さんの用いる「ナルシシズム」「コミュニケーション」「キャラクター」の用法と、僕が考えるそれらの語彙の用法との微妙なニュアンスの違いにも由来しているように思える。その辺りを詰めて考えてみたい。多忙な状況を抜けたら、『ゼロ年代の想像力』を、俺ならこうアレンジするみたいな事をやってみたい。言及したくなる本ですね!
 

*1:ひぐらし、リトルバスターズ、この青空に約束を、などなど

*2:ついでに言えば、三行の文章表示というフォーマットに制約された美少女ゲームのテキストと、ケータイ小説のテキストには、テキストが被っている制約の構造という意味でも、非常に近しいものがあるだろう、と思っている。ついでに難癖をもう一つつけるなら、宇野さんの「萌えへの理解」や「東浩紀さんの理論への理解」には、どこか的を射きっていない部分があるようにも思えてならず、結果として、「萌え」を宇野さんが語る際にディスコミュニケーションを生みやすくもなっていると感じる。

*3:このコミュニケーションという言葉のなかには、言語的なものだけではなく、非言語的な・肉体的暴力も含めた、諸力が含まれて然るべきだろう

*4:だから、本屋で最後だけ読んで終わり、というのでは全くピンと来ない筈。

*5:まぁ、うちの文章が宇野さんの目にとまるかどうかは非常に怪しいが