シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

何百万分の一の、ややこしさと分かりにくさ

 
 幾ら動機や心的背景を分析しても、一人の人間の行動を説明しつくすことは出来ない。例えば「電車でいちゃつくカップルがムカツク」と思った人が百万人いたとしても、実際に電車でいちゃつくカップルに難癖をつける人は、多分、千人もいない。ましてや、バールのようなもので唐突に殴りつけるような奴は、一人、いるかいないかぐらいだろう。「電車でいちゃつくカップル」をいきなりバールのようなもので殴りつける奴の、動機の種類だけ特定出来たとしても、多分あんまり意味が無い。
 
 動機の種類だけでなく。
 
 動機の鬱積具合がどうなのかとか、ちょっとした動機でも発火するような衝動耐性の低さがあったのかとか、恐ろしいまでの時間とエネルギーを一点に集中させるような特殊さがあったのかとか、そういった部分まで含めてでなければ、本来、「どうして電車のなかのカップルを彼がバールのようなもので殴ったのか」にはアプローチ出来ない。同じような動機・心的背景を持っている人が何百万人もいたとしても、その動機をスタート地点として、到達してはいけない所まで到達してしまう人はそう多くは無い。というか、滅多にいるものではない。
 
 到達してはいけない所の手前には、いくつもの関所やハードルやストッパーがある筈で、その何百もの“壁”をすべて通り抜けてしまった者だけが、超えてはいけない一線を超えてしまう。人間の行動を考える際、動機を検討するのはもちろん有意味には違いないけれど、その動機をもとに一線を超えてしまう人間が極めて稀であること、も意識されて然るべきだろうなと思う。あるいは動機の種類よりも、どうして動機が何百もの“壁”を超えてしまったのかのほうが、よほど知り甲斐がある、ような気がする。そして厄介な気もする。
 
 幾ら社会に対して恨めしさを抱いていても、いかに孤独であろうとも、ただそれだけで見ず知らずの他人をバールのようなもので殴ったり、刃物で刺したりできるほど、殆どの人間は強くもなければ弱くもない。それでもやってしまうというのなら、そこには何百万分の一のややこしさなり、分かりにくさなり、飛び抜けた何かなりが、あるのだろう。沢山の人と共通する動機だけでは決して回収しきれない、そういう何かが。