シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

「白鳥はみんなのもの。」を誰が教えるのか。誰に教わるのか。

 
 
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080429-OYT1T00093.htm
 
 茨城県水戸市の湖畔で、白鳥と黒鳥を中学生が撲殺するという事件があったという。ここで、自己表現の問題や命の価値うんぬんというややこしい話は脇に置いておくとして、とにかくもこの白鳥と黒鳥は、多分「公共物」だったのだろう*1。図書館の蔵書や市道県道などと同じく、皆が利用可能で、誰かが勝手に私物化したり駄目にしたりしてはいけないものだった筈だ。
 
 しかし、この事件をみていて私が思ったのは、「白鳥はみんなのもの。」「みんなのものを自分の勝手にしてはならない」ということを、中学生までの間に実感する機会というのが子ども達にどれだけあるのか?、ということだ。こういう事件が起こるたびに「親の顔がみたい」とか「どういう教育を受けているんだ」というコメントを目にするが、じゃあ裏返しに考えるなら、もし親が積極的に教え込まない限りは、公共物を勝手にしてはいけないとか、ゴミを散らかして迷惑をかけてはいけないとかいったことを実感出来る機会・学び取る機会は無いということなんだろうか。
 
 

公共性やモラルを先行世代から教わるのは、案外難しい。

 
 第一に気になるのは、“両親が子どもに指導するだけで、本当にモラルや公共性を学び取れるのか”という点だ。子どもが親に言われて「迷惑をかけない」ように学習すると言っても、案外それは「親に怒られるから」ことに対する対処として学習するだけであれば、両親の目の届かないところでは何でもOKという適応スタイルに子どもがなってしまうこともあるだろう。両親“だけが”善悪やモラルを意識しても、他の大人達に怒られたり指導されたりする機会がなければ、公共感覚やモラルは実際は内在化されないのではないか、という疑問を抱かずにはいられない。もしも「白鳥はみんなのもの。」「図書館の本を泥棒してはいけない」と子どもに語りかけるのが両親と(授業時間の)学校教師ぐらいしかいなかったら、せいぜい、五月蠅い連中だ、ぐらいしか子どもは思わないのではないか。親や教師だけでなく、周囲の様々な大人達も公共性なりモラルなりをちゃんと遵守していて*2、そこからはみ出した人間に対して敏感に反応しているのが常態なら、もう少し公共性やモラルの内在化も起こるような気がするが、ただ親や教師に言われるだけで、どこまでそれが進行するだろうか?
 
 しかも現代の親子が接点をもてる時間というのは、かなり少ない。幼稚園や学校への通学、塾や稽古事、そして親の残業やレクリエーションといったもので引き算していくと、親が子どもと時間を共有出来る時間が意外と少ないことに気づく。だから、親の影響が甚大であることは論を待たないにしても*3、学童期以降の子どもがモラルや善悪を内在化させていくプロセスに親が関与する割合は過大評価されがちなのではないか、という気がする。幾ら親が善悪やモラルの教育に熱心だとしても、親以外の多くの人達との、長い時間をかけたやりとりのなかで似たような経験が得られない限りは、それは子どものなかに納得をもって内在化していかないのではないだろうか。
 
 
 第二に気になるのは、仮に親の教育方針や意識の影響が大きいとしても、“「駄目な親」「子どもに公共性やモラルを教えてやれない親」のもとで育った子どもは、なすすべもなく高確率で公共性やモラルを欠如させるしかないのか”、という点だ。すべての子どもが十分にモラリッシュな親のもとに生まれるわけでもないし、すべての親が子どもと対峙する十分な時間的余裕を与えられているわけでもない。こういった理由により、モラルや公共性を伝えようにもそんな余裕の無い親というのは案外存在すると推測されるのだが、そういった家庭の子どもにおいては、誰が代わりにモラルや公共性を身につける機会を何処で誰から与えるというのだろうか。
 
 この点でも、親以外の経路でモラルや公共性を体験・実感する機会が乏しい実情を、私は意識せずにはいられない。現代の都市空間のなかで、多少悪いことをした程度では、子どもが叱責される機会は意外と少ない。叱責される機会が無いわけではないが、それはモラルや公共性を実感する機会というよりも、“短気な連中は怒らせないほうが賢い”ことを実感する機会として現れることのほうが多いだろう。ゴミをポイ捨てするだとか、図書館の本のページを破いてしまうだとか、そういった事をやっても拳骨をくらう機会は、殆ど無い。ある種の頭の良い大人達とは違って、子どもは「これをやったら自分にとってデメリットになる」ということがはっきり実感出来ない限りは、それを回避するような学習を身につけない*4。だが、そういう機会が、現代の都市空間の子どもにどれぐらいあるだろうか。人を刺したり白鳥を撲殺したりして、警察が飛んでくるような極端な状況の遙か手前で、大人達から「はっきりとしたデメリット」を伴う形でモラルや公共性を提示して貰う・教わる機会なんて、無いんじゃないだろうか。だから、両親の側が頑張ってモラルや公共性を伝達する余裕が無いという場合には、その家の子どもはモラルや公共性をろくに教わらないままに小学生時代〜中学生時代を終えてしまうのではないかと危惧される。
 
 

誰からも教わっていないのに、モラルや公共性が子どもに身に付くほうが、おかしいんじゃないの?

 
 逆から考えてみると、親からも他の大人達からもモラルや公共性を教わる機会が乏しいというのに、それでもモラルや公共性が子どもに身に付くということのほうが不思議なことのように私には思える。また、怒られるというレベルも含めた「これをやったら自分にとってデメリットになる」ということを周りの色々な人達にはっきりと示されない限り、子どもがモラルやら公共性やらを内在化していくことも難しいと思う。かつてのムラ社会であれば、ムラのルールを教え込まれる機会は多かっただろうし、悪いことをしていたら親以外の近所の大人に怒られることもあっただろう。けれども、現代の都市空間やニュータウンに、それは無い。また、(功罪は色々にせよ)ムラ社会においては自分自身のなかにモラルや公共性がじゅうぶん内在化していなくても、ムラのルール・ムラ社会全体という自分の外側にモラルや公共性をお任せしてしまう生き方も可能だったし、それだけで“悪いことをしないムラビト”たり得たが、そのような、自分の外側にモラルや公共性をお任せ出来るような“何か”は、現代の都市空間やニュータウンには希薄としかいいようがない*5。ムラ社会のなかでは問題になり得なかったモラルや公共性の獲得(またはムラという外部装置への委任)が、都市空間では個人単位、家族単位で問われてくる。しかし問われてくると言ったって、親も子どもも忙しいし、誰かが代わりに教えてくれるわけでもない*6。誰がどうすれば良いというのか。
 
 白鳥や黒鳥を何匹も撲殺してしまって警察沙汰まで行ってしまう中学生は、流石に少ないかもしれない。しかし、その一歩手前の、モラルや公共性を誰から教わらず、地域からも教わらずに育った子どもや大人モドキならば、都市空間のそこここに溢れているのではないか、と思う。家族ユニットやムラ社会システムだけに頼ることなく、個人や家族がモラルや公共性を身につける経路が、多分、求められている。それをどこに委ねれば良いのかは私にはまだ分からない。だが、とにかくそういうものなしで突き進んできた現代の日本において、モラルや公共性をあまり内在化させることなく成長する人間が増えていくこと“それ自体”は、自然な成り行きのように思えてならない。
 
 

*1:読売新聞の記事http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080429-OYT1T00093.htmによれば、市が購入するか、市に寄贈されたものだとのこと。

*2:遵守している理由が、村社会的相互監視によるのか、それとも宗教に関連した何かによるのか、もっと違った何かによるのかは、ここでは問わない

*3:特に、小学校低学年ぐらいまでにおける影響が甚大であることは強調されなければならない

*4:もしかすると、神様がいればもうちょっと違った形になるのかもしれないが、ここは極東の島国なわけで。

*5:ここで、じゃあ国はどうなんだという人もいるかもしれないが、国じゃ大きすぎると思う。お互いの顔もみえなくなってしまうし。

*6:あと、この国では神様頼み?というわけにもいかなそうな気がする