シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

いずれにせよ、世界にはコンテンツがこんなにも溢れている。

 
http://d.hatena.ne.jp/ululun/20080428/1209341089
ポルノコンテンツとか風俗関係のサービスは、基本的にセックスするまでの..
 
 どちらの文章とも違ったことが気になったので、少しだけ書いてみる。
 
 ここでいう“ポルノメディア”やら“信頼関係を結ぶプロセスを省略したメディア”やらというのは、実際にはエロゲーやら少女コミックやらだけが問題というわけではないと思う。ドラマや小説のなかでも、“関係性の構築プロセス”を省略したものは幾らでもみられる。むしろ、極端に理想化され過ぎた関係性の構築プロセスが、饒舌に記述されることだってある。それはポルノメディアだけの話ではなく、恋愛や男女関係を取り扱ったおよそ全てのメディアに言えることのような気がする。
 
 もし、メディアが少年少女達の“関係性の構築プロセス”の理想と現実のギャップを大きくするというのならば、特定のポルノメディアや特定のコンテンツだけが問題になっているというよりは、むしろ殆ど全てのメディアコンテンツが総体として問題になっている、と考えるのが適当ではないか。そして、“メディアコンテンツがどこを向いても理想のものばかり”“幾らでも自分の願望に合致した理想のコンテンツを、膨大な選択肢のなかから選びとることが出来る”ということのほうが問題としてはさらに大きいような気がする。消費の対象としてエロゲーを選ぶのか、携帯小説を選ぶのか、“韓流ドラマ”を選ぶのかはさておき、ともかくも私達は、自分のお気に入りの“恋愛物語”“関係性の物語”を選択することが出来る。現実よりも理想的な、現実よりも願望合致的なメディアコンテンツを消費できるのは、エロゲーオタだけの特権ではない。殆ど全ての男女が、[実在の異性との男女関係よりも理想的なメディアコンテンツ]に触れることが出来る。そして、その膨大な選択肢に曝され続けている。
 
 で、実在の異性、実在の異性、とは言うけれども、実在の異性に実際にアプローチしてみたいと思い立った時には、既に私達には(メディアコンテンツを通して)理想の恋愛・恋愛のテンプレート・自分が願望する男女関係、といったものをインストールされまくった状態なわけだ。実際に異性にアプローチしようと思ったその人の頭のなかには、エロゲーやらドラマやらで既にインストールされた、こうだったら良いのになという理想の男女関係イメージが十分に膨らんだ状態になっている。勿論、実在の異性にアプローチする時には“これはドラマとは違うから”“これはエロゲーとは違うから”という意識は働くに違いない。しかし、そういう意識があったとしても、目指されるべき理想は、メディアコンテンツにインストールされた理想や願望のほうを向かずにはいられないのではないか。“かくあるべき”“かくありたい”という理想と、そうではない異性との現実のギャップを感じずにはいられないのではないか。テレビドラマの大恋愛や、エロゲーのお約束展開をそのままやらかそうという無茶をする者は滅多にいなくても、それらの理想と、現在の自分の男女交際を見比べる者・現在の自分の境遇を見比べる者ならば、沢山いるのではないか
 
 メディアコンテンツがあまりにも充分に選択可能で、そこに自分自身の願望と理想を私達が見出す限りは、結局どうあれ、私達はメディアコンテンツを通して理想と願望を膨らませずにはいられない。そして、それを直接的に現実の異性関係に導入しようとはしないまでも、比較はせずにいられない。比較してみてギャップが大きすぎれば、関係性の締結プロセスを進行させることはおろか、オリエンテーションすら困難になってしまうだろう。例えば非モテの恋愛願望などもまさにこれだ。メディア経由でいつの間にやら肥大化した異性イメージ・恋愛イメージと、等身大の自分・見たまんまの異性、を比較して、そのギャップのゆえに関係性の構築プロセスへと踏み込むことが困難になってしまっている。異性や恋愛に対する願望と想像の塊が、メディアコンテンツを経由して雪だるまのように肥大化していればしているほど、そして現実とのギャップが大きくなればなるほど、その人は“現実の恋愛よりもコンテンツの消費”を選ぶ確率は高くなる。または、仮に実在の異性と男女交際したとしても、自分の理想と願望が満たされなくなるや失望して、関係性の構築・維持を放棄してしまいやすくなるだろう。
 
 そうは言っても、世の中にはあらゆるメディアコンテンツに溢れていて、自分の理想や願望を存分に引き出してしまう理想のコンテンツに、ついつい遭遇せずにはいられないし、今更目隠しなど出来るはずもない。だからこれは、重度のエロゲーオタクや非モテだけの問題ではない。誰もが、メディアが提供する理想と、実在の異性・恋愛とのギャップに曝され、その影響を蒙りながら関係性を構築していかなければならない。その際には、理想と現実との齟齬なり、自分の願望と対象との摩擦なりに耐えうる“ある種の強度”が求められるだろう。齟齬や摩擦に耐えられない人は、このギャップに、きっと耐えることが出来ない。しかし残酷なまでに理想的なメディアコンテンツが、今日も明日も明後日も、個々人の細かいニードに寄り添うかのように提供されるのだ。
 
 それを福音と呼ぶべきか、試練と呼ぶべきかは、私には分からない。いずれにせよ、世界にはコンテンツがこんなにも溢れている。
 
 

念のため断っておくと

 
 念のため断っておくと、メディアは“友情”“親子”などといった関係性に関しても饒舌で、視聴者の理想と願望を引っ張りだすことに長けている。あらゆる関係性の領域が、誇大な理想と、そうではない現実とのギャップに曝されている。そのギャップに耐えられる“ある種の強度”が無ければややこしい事になりやすいというのは、男女関係に限った話ではない。