シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「No」に際して物凄く不安になってしまう人達

 
 「自分を飛躍的に成長させる状況」と「自分が潰されてしまう状況」の見分け方 - 分裂勘違い君劇場
 
 今回もfromdusktildawnさんの記事は、娑婆で世渡りをしていくうえで重要な、そして基本的な振る舞いを紹介するものだった。自分の人生もビジネスも恋愛も、誰かが代わりにやってくれるわけでもなければ、誰かが責任をとってくれるわけでもない。生きていく為には、「周囲が俺の空気を読んでくれて助けてくれる」などという甘いことは考えずに、自分にあったポジションを選び、自分が出来ないことを引き受けすぎないようにしていかなければならない。それが出来ない人ほど、出来もしない仕事を(勝手に空気を読んで)引き受けた挙句、Noとは言えなかった自分を責めるでもなく、自分がNoと言えなかった環境を糾弾する傾向がみられるわけだが、今日日、そんな事をしたってその人が幸せになれる筈も無い。
 
 では、このfromdusktildawnさんの言うところの、状況の選別と選択には何が求められるのか?合理的思考や判断力、自分の願望よりも目の前の現実を視ようとする態度、などが求められるのは言うまでもないが、日本人の場合(もっと言えば、はてなで非モテ・非コミュ的嘆き節を繰り返しているような日本人の場合)、なにげに大きなハードルになっているのは、「No」に際して強い不安にとらわれるメンタリティなんではないか、という気がする。
 

「No」に際して物凄く不安になってしまう人達

 
 むかし、『Noと言えない日本人』という本が売れていたこともあったらしいが、実際に日本人がどこまでNoと言うのが苦手な民族なのかを、私はまだ十分には知らない。ただ私が間違いないと思っているのは、Noと相手に言うこと・言われることに極度に免疫力の無い人が実際に沢山いて、そういった人達は「No」の取り扱いが下手で、大体酷い目に遭っている、ということだ。
 
 相手に「No」と言ったら、相手と自分との関係が切れてしまうのではないか・自分が見捨てられてしまうのではないか、とでも思っているかのように、彼らは相手に「No」ということを回避する。Noと言わなければ重荷を背負わされると分かっている場面でも、少々のことでは彼らはNoとは言わず、不承不承引き受ける。相手に「No」と言うことで自分が不安になってしまうよりは、多少苦労はしても、その場の不安を解消してしまったほうが気持ちが楽になるので、とうとう抱えきれない重荷まみれになるまで、彼らは「No」を回避する。そんな事をしていると、やがて周りの人は「なぁんだ、この人はなんでも引き受けてくれる“いいひと”だなぁ」と思いはじめ、タスクをどんどん放り込んでくるのが関の山なのだが、この手の「No」を回避する人達は、「僕もNoと言いたいけれど、言いたくても言えないこの気持ちを汲んでください!」と願いつづけることになりやすい*1。自分の引き受けられる苦労・自分が引き受けて得になりそうな苦労、などを合理的主体的に選択するよりも、とにかく「No」に伴う不安を遠ざける彼らだからこそ、自分が潰されてしまう状況にもズルズルとはまりこんでいきやすい。
 
 このタイプの人は大抵、「No」と言われることにも、極めて脆弱だ。Noと言われることを避ける為ならどんなことでもしたり、相手の顔色の意のままに操作されたりもする。一番忠実な“空気の奴隷”になりやすいタイプでもある。相手と自分との関係が切れてしまうことへの怖れ・自分が見捨てられてしまうことへの不安、といった性向はここでも当人の選択肢と判断力を大きく束縛する。というのも、「No」と言われることのコスト&ベネフィットの具体的算盤勘定が、いつの間にか「No」と言われる不安を巡っての心理的算盤勘定に置き換えられてしまうからだ。悪いことに、世の中にはNoと言えない人間を拾い上げて搾取する天賦の才を与えられた人種というのが存在する。そういった人達に捕まると、このタイプの人は徹底的に搾取されることにもなりかねない。実際は、「No」と言われたからといって関係が完全に切れてしまう人間関係はそんなに存在しないし、逆に言えば一回の「No」程度でどうにかなってしまう関係など推して知るべしなのだが、そこら辺を冷静に検討するより前に、「No」に対する不安をどうにかして遠ざけようとするあまり、彼らはチャンスを見失い、余計な苦労を抱え込むことが多い。
 

関係が切れてしまう不安・見捨てられる不安が強い限り、チャンスは拾えない

 
 そんなこんなで、「No」を巡る不安の強さ故に、彼らは判断力や選択肢を制限されてしまいがちだ。自分を飛躍させるチャンスを拾い、自分が引き受ける負荷を制御するべく判断・選択しようにも、[関係が切れてしまう不安][見捨てられる不安]が根っから強ければ強いほど、その不安に思考が侵されてしまいやすい。合理性や長期的展望よりも、衝動性や[今この瞬間の安心]に振り回されてしまいやすい。それではなかなかチャンスは拾えないし、余計な重荷を背負い込むのも避けられっこない。
 
 fromdusktildawnさんをはじめ、多くの人が「今が、戦うべき時なのか、逃げるべき時なのか」を適切に判断せよ、とアドバイスするし、そのアドバイスはおそらく正しい。しかし、[関係が切れてしまう不安][見捨てられる不安]が強い人達においては、それが著しく困難であることも付け加えておかなければならない、と思う。「No」を怖れるメンタリティに強く束縛される限り、彼らは合理性や長期的展望から遠いところを彷徨い続け、いつまでも他人の顔色と空気の奴隷を続けることになるのではないか、と推測する。どんなに本を読もうがビジネスを学ぼうが、「YesかNo」のたびに不安に判断力を曇らされる状況では、色々と困難なのではないか
 
 

*1:極端な事例のなかには、読めない空気を読んでくれない周囲を恨みはじめて、ちゃんと自分でNoと言っていない自分自身を完全に棚にあげて、周りの人達を加害者扱い・自分自身を被害者扱いしはじめる人もあるようである