シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

読解・対話を通して見えてくる、相手のコミュニケーション可能性(駄目だこりゃ、というのも含めて)

 
どうすればブクマコメントを気にしないでいられるか - novtan別館
 
 id:NOV1975さんが、含蓄深い文章を書いていました。自分自身の脆さや弱さ・相手の凄さや醜さが、一方向的な受信だけでなく、双方向的なやりとりを通して浮き彫りになってくるというのは全くその通りと思いました。相手の発言や文章の一つ一つを吟味したり、双方向的なやりとりを通して、私達はお互いの対話可能性・コミュニケーション可能性*1吟味しあっているように思います。それも、絶え間なく。
 
 ただ、ともすれば、人は対話やコミュニケーションというものを誤解しがちです。対話というと、「お互いの距離を近づける」「理解しあう」「相手の良い部分に気づく」などとばかり連想する人もありますが、実際のコミュニケーションは、その正反対の効果をも含んでいます。コミュニケーションを万能お姉さんの如く空想している人をみると、僕は無残だなぁと思うほうです。「お互いの距離の遠さを知る」「理解し難さを評価する」「対話コストを支払うに値しない人物であると判断する根拠が揃う」という向きも、忘れるわけにはいきません。そこの所を誤解して、「話せばきっとボクの凄さに気づいてくれる!」と夢想している人が(ネット・リアルを問わず)後を絶たないようですが、実際はそうじゃないですよね。発言を聞けば聞くほど「つくづく駄目だな」と評価が段々下がっていったり、対話を通して「うわぁ、芯から駄目そうだぞ、これは」などと確信を深める場合が、往々にしてあるのが人間同士だと思っています。
 
 

つまり、きちんと向き合えば、そこに何らかの価値を見出すことは可能なのです。

 ですから、NOV1975さんが書いた上の一文は真実だと思うんですが、対話を通してはじき出された価値というのは「好ましい価値」ばかりとは限らないことは、確認しておきましょう。NOV1975さんもその点は重々お気づきのようで、本文中でそれとなく仄めかしてはいるように読解しました。ですが、NOV1975さんの優しさでしょうか、コミュニケーションに夢想的価値を抱いている人が素通りしそうな柔らかい表現をなさっているなとも思いました。
 
 

限られた時間と労力だからこそ、対話対象を評価することの意義。

 
 人間には限られた時間と労力しか与えられていない以上、全ての人物やテキストを、完全にフラットな評価で選択・対話するわけにはいかないのが実情です。また、意識せずとも私達は、[誰のテキストに耳を傾けるか]・[誰に重点を置いてコミュニケーションするのか]を常に検討しながらコミュニケーションしています。そしてそれが上手い人ほど、対話の効率性をあげることにも成功します*2。コミュニケーション巧者と言われる人達をみていると、大抵の場合、単に相手との対話が上手いというだけでなく、誰とどれだけの比率で対話するのかを選択する能力にも優れているようにみえます。一方で、意見の相違が既に十分明確になってもなお「ボクの意見に同調してくれるまで殴るのをやめない!」と未練たらしくエネルギーを空費したり、批判するに足らない相手を批判することに時間を費やしたりしてしまう陥穽に、ついつい私達はハマってしまいます。そういう時には大抵、そうせずにはいられない執着とか、防衛せずにはいられない不安や葛藤が紛れ込んでいるように見受けられます。そんな事するぐらいなら、もっと望みのある対話対象を選んだり、もし同じ相手でも異なる分野の話でもすればいいのに…ついつい、執着や不安に揺さぶられるままに、“これ以上やってもしようがないコミュニケーション”を繰り返してしまうのも人間の一側面ではあります。
 
 私なんかの場合も、テキスト閲覧や対話を通して、相手との対話可能性・コミュニケーションの価値可能性を常に見ていますし、おそらく他の人達においても同様でしょう(それを意識するかしないかはさておき)。私の頭のなかには、これまでの閲覧や対話の履歴によって形成された、個々人の対話可能性をプロットした数直線*3のようなものがあるような気がします。[大好き][議論に好適][友好的]といった積極的に対話を推奨する相手もあれば、[ニュートラル][特定分野の議論に好適][意見は近いが議論に適さない]という真ん中ぐらいの相手もあります。そして、これまでの繰り返し履歴からどうしようもないと判断せざるを得なかった事例に、[理解力も性根も酷い][コスト過多にしてメリット過小][絶縁放置]などといった評価づけを行うこともあります*4。今までの閲覧や対話から「この人と言葉を交わしても何にも得るところが無い」と判断できる場合などは、無理に対話を続けても徒労に終わる確率が高い。何か別のメリットか、特別な義理でもない限り、そんな相手とコミュニケーションするのは非効率極まりないと私は感じています。
 
 インターネットには実に様々な人がいて、対話対象の選択可能性は一個人にとって殆ど無限に近いです。そのなかで、より建設的な対話・より滋養のある対話を求めていくにあたり、どうにもならない可能性の高い相手よりは、ニュートラルな評価の相手や未知の相手との対話を優先させたほうが色々と良いのではないか。そのなかから[この人なら信頼してぎりぎりまでやりあえる][この人なら反対意見をぶつけても面白い話が出来そうだ]と思う相手を見つけた時には、対話のコストを思い切って賭けてみるのがいいんじゃないかと思ってやっています*5。「どうやらこの人は、対話対象としてかなり信頼出来る相手らしい」とか「この人が好き!」とか思った時には、私などは嬉しくなって、ついつい長文を投げかけてしまいがちです。実りある対話が期待できる相手なら、時間や労力の費やし甲斐もあるというものですからね。逆に、どうにもならない相手と判断するに足る材料が揃っている相手とは、お話しする気になりませんし、多分しません。どうせなら、当たりそうな宝くじを買いたいじゃないですか。
 
 対話やコミュニケーションを通してみえてくる価値。それは望ましいものかもしれませんし、その正反対のものかもしれません。対話やコミュニケーションは相手の価値をみえてくるようにはしますが、それは相手の対話可能性をプラス方向に傾けるというよりは、相手が元来持っている諸属性をくっきり見出しやすくする(プラスの意味でも、マイナスの意味でも)という印象を私は持っています。誤魔化されていた非道い所がみえてくることがあるかもしれないし、逆に、素っ気無い言葉の裏に秘められた配慮に気づくこともあるかもしれない。善意や悪意に気づくこともあるかもしれないし、自分と同意見と思っていた人の相違に気づくことも出来るかもしれない。そういった諸々を見知るうえで、確かに読解や対話は価値のあるものだなぁと思います。また、読解や対話を通して得られた「相手の人についての評価づけ」情報そのものにも、かなりの価値があるのではないか、とも思っています。
 
 

ああ、そういえば

 そういえば、対話ってのは自分と相手の二者関係だけで視るものでは無かったですね。AさんとBさんのやりとりを、第三者として視る、というのも得がたい情報をもたらすし、二者関係の内側だけでは気づかぬ情報や、(発言の)動機付けをもたらすものだった。まあ、そういうのも含めての対話・コミュニケーション、なのでしょうけれども。
 
 

*1:「も」、を強調文字にしたのは、私があたかも「対話なんて相互評価のためだけのツールだ」と主張しているかのように誤解する人がいるかもしれない為です。コミュニケーションの第一の目的が別にある場合であっても、相互価値付けと対話可能性の模索は行われているでしょうし、逆に、相互評価の為だけに、意見が表明されたり、対話が形成されたりすることも少ないと思っています。

*2:もちろんこの際に、「自分とは異なる意見を表明している」という、ただそれだけで対話の価値を低く評価したり貶したりするような人は、かなりアンバランスな結果を招来することは言うまでもありません。

*3:或いは、n次元的座標軸

*4:勿論こういった評価の座標は、一つ一つのやりとりを通して常に修正されていくものですが。

*5:勿論、このような文章をNOV1975さんにトラックバックするということは、つまり、そういうことなのでしょう。好きな相手には好きなだけ言及を!というブログライフをこれからも指向していく所存です。