シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

或るエゴイストの経験からすれば

 
 或るエゴイストの経験からすれば。
 
 
 己のエゴイズムをはっきりと鼻先に突きつけられるまでは、脱却困難なヒロイズムに溺れたままの人というのが世の中には一定の割合で存在している、と思う。ヒロイズムに陶酔している最中に、自己陶酔を自覚することは難しい。自覚できないからこそエゴイズムは肥大化するし、当の本人は「すごく献身的な自分自身」に酔っていたりするのだから、振る舞いはいよいよ醜悪になっていく。
 
 ヒロイズムの衣をまとった搾取が破綻を迎え、自分自身の丸裸のエゴに直面してようやく、エゴイストは自分のエゴに気づき、懺悔と反省の情に駆られる。これで自分自身のエゴっぷりにきっちり打ちのめされた人なら、以後はエゴイストとして自覚しながら、今までよりは控えめに生きていくことが可能になる。だが、全てのエゴイストが自覚に至るとは限らない。なぜならこの悔恨の態度もまた、エゴイスティックな自己陶酔のツールとしておあつらえ向きだからだ。例えば、悲劇俳優な気分からは一歩もはみ出さず、“反省している自分自身にむせび泣く”人の場合などは、自らのエゴに気づくことはきわめて困難と言わざるをえない。真のエゴイストは、懺悔さえも自己陶酔に変換してしまう程には度し難いし、まただからこそ、ヒロイズムの衣をまとった大袈裟な搾取を何度も繰り返してしまいやすい。
 
 

追記

 ヒロイズムの衣をまとった搾取が破綻を迎えた時、“反省している自分自身にむせび泣く”のもたいがいだが、さらに酷いパターンがあるのを忘れていた。自分自身のヒロイズムを満たせなくなった時に、「こんな風になったのはお前がしっかりしていないからだ」「俺は正しかったが、お前が間違っていたからこうなったんだ」と相手を責め始めるエゴイストも存在しているのだった。頼まれたわけでないのに誰かに対してヒロイズムを押し付けた挙句、それが自分の思い通りの展開にならないからといって相手を糾弾し始める人達。